富山県による開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/25 01:17 UTC 版)
急しゅんな地形は水力発電に適しているとされる一方、大雨による出水時は沿岸に大きな被害をもたらしかねないものである。当時、常願寺川流域は毎年のように水害に見舞われ、復興事業のための資金確保に追われていた富山県は、ダムを建設しその治水効果に期待するとともに、水力発電所をこれに付設し、発生した電気を売却して得た利益を県の財政に充てようとした。1920年(大正9年)、富山県は常願寺川の支流・和田川上流に位置する有峰盆地一帯を買収。将来のダム建設を見据えての行動で、住民は補償金23万円(当時)をもって集団離村した。 1926年に大学一年生の深田久弥が、一高生の熊谷三郎と薬師岳登山をするために有峰の集落を通過。有峰は既に廃村と化しており、朽ちた廃屋や墓石の様子を著書『我が山々』(1934年刊)にて記述されている。同行した熊谷は、後に熊谷組の社長になり偶然にも有峰ダムの建設に携わることとなった。 有峰盆地を県有地に置いた富山県は、1923年(大正12年)に富山県営電気事業計画をまとめ、富山県電気局(現在の富山県企業局)調査班を現地に派遣。調査の結果、水力発電開発に伴うダム建設工事は難工事の様相を見せ、工事費も膨大なものになると試算された。経済も冷え込んだ状態にあった当時のことであり、すぐに着工まで至らなかったが、1934年(昭和9年)の水害をきっかけに、1935年(昭和10年)、ついに富山県議会はダム建設を議決した。 当初は高さ110メートルの重力式コンクリートダムとして設計され、その大きさは現在の高さ140メートルに比べれば見劣りするが、戦前のダムとしては異例の巨大さであった。ダムに貯えることができる水の量は9,000万立方メートルで、下流に建設する4か所の水力発電所で最大5万8,000キロワットの電力を発生する計画である。 工事は1938年(昭和13年)に本格的な着工を見せた。しかし、1937年(昭和12年)の日中戦争により戦争への道を歩み始めた日本は電気事業を国策として一括管理するとして、1942年(昭和17年)、有峰ダム建設事業を日本発送電に引き継がせた。その後も太平洋戦争は激化の一途をたどり、ダム建設工事に必要な資材や人員が不足。ついに1943年(昭和18年)、工事は中止された。ダム建設で打設するコンクリートの総量は70万立方メートルで、その20パーセントである13万8,000立方メートルを打設したところのことであった。購入済みの水車発電機は建設途中のダムともども放置されてしまう。
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