富山産業大博覧会と天守閣建設
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「富山市郷土博物館」の記事における「富山産業大博覧会と天守閣建設」の解説
アメリカ軍の爆撃(富山大空襲)により、富山市は灰燼に帰し約十万人が被災した。そして戦後、復興のために人々の努力が続いていた。 復興事業がほぼ完了し記念に行われたのが1954年(昭和29年)4月11日 - 6月4日、富山城址で開催された富山産業大博覧会であった。ポスターによれば、富山県と富山市の主催、魚津市参加、国鉄後援であった。通称、富山博といわれ、会場は富山市城址公園附近一帯と魚津会場を設けて、観覧時間は午前8時30分から午後5時30分までであった。47万人が入場した。4億円の予算で、電気・薬を展示の売り物とし、自治体館(後の市庁舎を展示施設としていた)として東京館、北海道館が設定された。 建物の外観は彦根城や犬山城など、全国の現存天守を参考にデザインされた慶長様式で、会期中は「美の殿堂」として美術展などが開かれていた。構造は複合連結式望楼型3重4階(天守)2重2階(小天守)で RC造である。当時は天守展望台から、富山市街はもとより北アルプスや富山湾まで見渡すことができた。模擬天守はその時に復興のシンボルとして作られた記念建造物であるため、その後、多くの人が親しみを込めて富山城と呼んだ。
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