宗教・外交政策
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「アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)」の記事における「宗教・外交政策」の解説
アルフォンソ6世の時代、ヨーロッパからの移民と異教徒討伐に向かう騎士などがイベリア半島へ進出するようになった。それは教会とアルフォンソ6世の結びつきが現地の情報を西欧にもたらしたからだったが、アルフォンソ6世は教会改革を推し進めるクリュニー会(クリュニー修道院)との関係を深める一方、全スペインの世俗君主の臣従を主張してスペインに介入する教皇とは一線を画し、ムスリムに対しては寛大に振る舞っていた。 アルフォンソ6世は婚姻によってフランス貴族と関係を結び、ローマ典礼を導入してモサラベ典礼から変更し教皇との関係を強化した。また、サンティアゴ・デ・コンポステーラに大司教座を設置して聖地の地位を向上、巡礼者の増加に一役買った。しかし教皇との関係は複雑で、1077年にグレゴリウス7世が全スペイン君主に対する臣従と地代を要求するとアルフォンソ6世は拒否、西ゴート王国の直系としてヒスパニア皇帝を名乗り教皇を牽制、司教区・教区整備など教会行政の整備に尽力して父の代から結びついていたクリュニー会との関係を強化し、彼等に多額の金や修道院を寄進して教皇のスペイン介入に対抗した。これには、教皇に臣従したアラゴン王サンチョ1世を牽制する意図も含まれていた。 クリュニー会への援助は続き、1080年にクリュニー会員ベルナールを側近に据え、トレド解放後の1086年に大司教に任命することで教皇への対抗勢力に置いた。クリュニー会への露骨な肩入れはカスティーリャ人の怒りを買い、寄進に伴う税の引き上げ、クリュニー会に修道院や町を取り上げられた聖職者・庶民達の苦情が絶えなかったが、アルフォンソ6世以後の王達は寄進を続けた。モサラベ(イスラム教国に住んでいたキリスト教徒)も外国人中心のクリュニー会に反感を抱いていたため、モサラベ典礼を続けても良いと許可してモサラベを宥める、トレド総督にモサラベを登用するなど融和策に努めた。ムスリムとはパリアを介したタイファとカスティーリャの関係、キリスト教徒貴族がタイファに傭兵として雇われるなど身近な存在として人材交流が盛んであるため、クリュニー会などのフランス人や外国人と違い異端として排除する気は無かった。 一方、タイファに対しては、始めのうちはレコンキスタを進めて領土を征服しようとせずパリアを強要し、諸国間の争いに介入することで影響力を行使した。タイファ諸国もカスティーリャよりも互いを攻撃して自ら弱体化を招き、生き残るためカスティーリャへの従属を深める有様だった。しかし、1080年にトレドで内紛が発生するとそれに乗じて1081年から都市を攻囲し、1085年にムスリムの財産と信仰の保障、税は征服前と同じ、市民の退去と復帰は自由とするなど、寛大な条件を約束してトレドの降伏を受け入れた。これにより、キリスト教国の支配地はタホ川まで南下した。 だが、セビリアも支配しようとアルフォンソ6世が圧力をかけると、タイファ諸国は北アフリカ・ムラービト朝のユースフ・イブン・ターシュフィーン(en)に救援を求めた。ユースフはこれに応えてイベリア半島に上陸し、1086年10月23日にバダホス北東のサグラハスの戦いでカスティーリャ軍を敗走させ、アルフォンソ6世自身も片足を失う程の重傷を負い退却した。
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