学校の占拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 05:47 UTC 版)
「チリでの学生運動 (2006年)」の記事における「学校の占拠」の解説
3週間にわたる抗議活動を経ても学生たちの要求に対する進展はわずかなものであった。むしろ、彼らの闘いに対する世間の共感という点で、暴力行為が逆効果を与えてしまっていた。転機となったのは、チリでも名門校として知られるインスティトゥト・ナシオナル(英語版)とリセオ・デ・アプリカチオンで、学生たちが5月19日の夜に学校を占拠し教育改革の改善を求めたものであった。この要求には、1982年に導入された教育行政の基礎自治体への移管というシステムの終了、LOCEの廃止、そして5月21日に行われるミシェル・バチェレ大統領の一般教書においてはっきりと宣言することが盛り込まれていた。しかし、バチェレ大統領は間接的に学生たちの要求に触れるだけに留まり、むしろ学生たちの暴力行為を非難することに焦点を合わせる内容となった。 この政府の反応は、デモ活動の継続を求めていた学生たちのリーダーらを満足させるものではなかった。しかし、Instituto Nacionalの学生たちは、授業のストライキと引き換えに学校の占拠をやめることを決めた。このストライキは、教師、保護者、学校管理者からも支持されていた。一方で、いくつかの公立高校では占拠が続けられ、また未遂に終わった学校もあった。衝突などもなく一見して平和な状況であったが、占拠した学生たちは政府やマーティン・ジリッチ教育長官からは受け入れられず、学生たちの動員が続く限り交渉のテーブルには戻らないと明言されたまま交渉は終わってしまった。 しかしながら、対話を拒否する政府側の戦術は功を奏しなかった。4月24日に抗議活動が始まって以降、5月23日の段階でバチェレ大統領の母校を含む14の学校が学生たちに占拠されているかストライキが行われている状況にあった。 その夜、サンティアゴ中心部の11の学校が学生たちによって占拠された。学生たちは連立与党の下院や、教師会その他各種協会から政治的なサポートを受け、ジリッチ教育長官は難しい立場に立たされることとなった。ジリッチ教育長官は最終的に、「騒動の発生している学校の全ての代表者」と新たな交渉の場を設けることを求め、翌週月曜の5月29日に設定された。しかしその日のうちに、学生たちが立てこもる学校はイキケ、バルパライソ、ランカグア、コンセプシオンなど全国各地で増えていった。 学生運動の広まり日付占拠された校数ストライキが行われた校数総校数5月19日(金) 2 0 2 5月21日(日) 2 0 2 5月22日(月) 1 4 5 5月23日(火) 6 8 14 5月24日(水) 17 10 27 5月25日(木) 24 16 40 5月26日(金) 30以下 70以上 100以上 5月30日(火) 320 100以上 420以上 5月26日になると状況はさらに拡大し、サンティアゴのマイプー区、サン・ミゲル区、ラス・コンデス区、プダウェル区やプエンテ・アルトの学生たちが平和的なデモ行進を行ったほか、私立学校らがこの催しを支持した。全国で100校に達する学校から10万人の学生が大規模デモに参加した。高校生調整会議(ACES)は5月30日に全国ストライキを行うことを呼びかけ、チリ大学学生連合(FECH) や全国教員組合からも支持を受けた。 こうした動きに連れて、世論はだんだんと政府や政府の危機対応に対して批判的になった。これによりバチェレ大統領は「いかなる例外も無い議題で」対話を再設定せざるを得なくなったが、この新たな対応は決して矛盾も失敗も意味するものではないと重ねて断言した。「これは、話をし話を聞くためにテーブルに着く決定をしたものだ。そこには我々が同意できるものがあるだろうし、そうでないものもあるだろう」 全国規模のストライキを回避する最後の機会は、ジリッチ教育長官が学生たちの代表者に呼びかけて行われた会合だった。しかし、この会合はジリッチ教育長官自らが行ったものではなくピラール・ロマグエラ副長官が執り行うというもので、学生たちはその状況を拒否した。さらに、この交渉に選ばれた会場はおよそ100人にのぼる学生の代表団を受け入れる規模ではなく、学生たちは1ヶ所に集めて交渉しなければ交渉継続を拒否すると態度を硬化させてしまった。政府は交渉の継続に自信を示し、今回の会合が失敗であったという見解を否定するとともに、小さな前進が得られたと主張した。 会合が決裂したあと、ACESは組織を6つの地方部門に再編成するとともに、与党コンセルタシオン・デモクラシアと野党チリのための同盟の両方の上院議員との会合を行った。広い範囲にわたってこの運動へのサポートが浸透する兆候が、政界諸派にも広まっていた。
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