委員会成立への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 14:24 UTC 版)
宋哲元 韓復榘 宋哲元は自治運動が自身の勢力拡大に有利であり、大義名分もあることを背景に中国北部に新政権を樹立する動きを見せた。この動きに対して国民政府側は馮玉祥の密使を使って独立を指向する勢力の切崩しを図った。宋哲元に協力の姿勢を見せた韓復榘に対しては中央軍を移動させて威嚇を行っている。 中村幸雄によれば、土肥原賢二少将の構想した北支政権の成否は、山西省と綏遠省を支配していた閻錫山の態度次第であったが、閻錫山は態度を決めかね、日本側の提案を受諾しなかった。この時期、南京政府の軍事委員会委員長が蔣介石、閻錫山は副委員長であった。このため日本側は土肥原構想を推進するため、閻錫山の掌握を目的として山西省に特務機関を創設した。 中村隆英によれば、関東軍は11月12日より山海関に戦力を集中させ、中央に「英国の中国経済支配は民衆に害をなし、満洲国に脅威となるので、北支諸省を経済的に分離せしめてこれに対抗する。中国政府の今回の失策に乗じて、華北分離工作を断行するべきだ」との趣旨を打電し、その追認を受けた。このような軍事的背景をもってしても、予定された11月20日までに宋を籠絡できなかったので、殷汝耕にも圧力をかけ、11月23日には冀東防共自治委員会設立を公表させた。 12月9日に北平・天津の学生らによる自治反対の抗日デモが発生した(一二・九運動)。中村幸雄によれば、一二・九運動は中国共産党北方局書記であった劉少奇指導によるもので土肥原少将の北支政権樹立工作に対する反撃である上に、この時期には長征にあった毛沢東軍が10月延安に終結すると敗戦部隊であった状態から直ちに劉子丹軍を吸収、編成を改正し、陝北根拠地の建設に取りかかり戦力を回復させるが、一二・九運動はこの軍再建に必要な多くの幹部軍官の充足のために行われた幹部軍官募集の意味での学生の獲得運動という一面もあり、大量の知識分子が獲得され、1936年2月には共産軍による山西侵入作戦が起こされ、その実力を誇示している。 この機に察哈爾、河北の軍権を掌握して中国北部最大の実力者となった宋哲元は徐々に自治を進めて国民政府との衝突を避けようとしたが、中央政府による冀察綏靖公署主任への就任要求は拒絶した。宋哲元が北方自治政権樹立を決意したことに激怒した蔣介石は宋哲元に対し「中央の意思に叛くようなことがあれば断固たる措置を取る」という警告の電報を送ったが、宋哲元は中国北部の自治を要求する電報を中央に送り、場合によっては宋哲元、秦徳純、程克、張自忠など要人が総辞職した後に自治政権を樹立する構えを見せた。 中国北部の新政権はあくまで南京政府の支配下に置くという腹案を携えて何応欽が北平に派遣されて交渉が行われたが、宋哲元は一切の官職を辞して天津に退避し、何には北平からの退去勧告を出した。何応欽は南京政府と宋哲元の双方を満足させる妥協案を蕭振瀛と練り上げることで宋哲元との会見を実現させ、合意を得た。 1936年(民国25年)8月19日の宋哲元委員長歓迎宴会には、宋哲元と秦徳純、今井武夫、牟田口廉也、河辺正三、松村孝良、川越茂などが出席した。
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