大平元宝
(太平元宝 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/11 04:03 UTC 版)
大平元宝(大平元寳、たいへいげんぽう)は、奈良時代を記した正史に記録が見える銀銭。史料上では天平宝字4年(760年)に銅銭の萬年通寳と金銭の開基勝寳とともに定められたことが確認されるが、正真の現物は発見されておらず「幻の銀銭」とされる。
注釈
- ^ ここで「旧銭」は和同開珎を指す[1]。
- ^ 参考品とは、当時の律令政府が発行した銭でなく後作の偽物。
- ^ 実際には和同開珎を原料として10倍の価値を与えられた萬年通寳の私鋳が多く行われたと予想される[13][14]。萬年通寳発行の頃にも私鋳銭を厳罰とする詔が頻繁に出されている。
- ^ 吉澤は『正倉院紀要』第39号所収の「正倉院南倉の銀壺について」で、正倉院の銀壺「甲」「乙」は唐製で遣唐使が日本に持ち帰ったとする従来の有力説に対し、唐の金銀器との比較を通じて、銀壺の彫金技法が稚拙であることと、表面の文様も同じ図像が複数使われて多様性が低い点などを指摘し、正倉院の銀壺は実際は日本製で、文様は唐から入手した原図を転写・合成して描いたとする見解を発表した[18]。吉澤は併せて、銀壺の底面に刻まれた銘文の「天平神護三年(767年)二月四日」(銀壺が東大寺へ奉納された日)からその製作・奉納の背景についても考察し、銀壺は藤原仲麻呂の乱を平定した称徳天皇が東大寺の大仏へ感謝を表すために奉納したもので、「甲」「乙」の総重量が100キログラムに及ぶ銀壺の素材は、藤原仲麻呂と淳仁天皇の政策を白紙化する流れで回収された大平元寳を充てることで調達されたと推測している[19]。
出典
- ^ 青山礼志 1982, p. 14.
- ^ a b c d e f g 松村恵司 2009, pp. 48–53.
- ^ a b c d 今村啓爾 2001, pp. 161–165.
- ^ a b 永井久美男 2018, pp. 5–6.
- ^ a b 永井久美男 2018, p. 16.
- ^ 滝沢武雄 1996, pp. 26–29.
- ^ 郡司勇夫「大平元寳余話」『ボナンザ』第八巻、四号、1972年
- ^ 皇朝銭研究会 2019, pp. 115–116.
- ^ 青山礼志 1982, pp. 18–20.
- ^ 矢部倉吉 2004, pp. 38–41.
- ^ 矢部倉吉 2004, pp. 518–519.
- ^ 謎の珍品古銭, 遼 (契丹)
- ^ 松村恵司 2009, p. 50.
- ^ 今村啓爾 2001, p. 171.
- ^ 吉澤悟 2017, p. 25.
- ^ 銀壺 甲 - 正倉院、2023年8月11日閲覧。
- ^ 銀壺 乙 - 正倉院、2023年8月11日閲覧。
- ^ a b 産経新聞 (2017年4月21日). “奈良・正倉院の銀壺、中国製ではなく国内製? 奈良博室長が新説”. 産経新聞 (産経新聞社) 2023年8月11日閲覧。
- ^ 吉澤悟 2017, pp. 21–23.
固有名詞の分類
- 太平元宝のページへのリンク