大韓帝国の成立と日露戦争
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「日朝関係史」の記事における「大韓帝国の成立と日露戦争」の解説
三国干渉後の李朝では、日本の勢力を抑えるためにロシア帝国に接近する派閥ができて、閔氏が中心となった。金弘集政権を支持する日本は高宗の妃である閔妃と対立して、三浦梧楼公使らの計画により乙未事変で閔妃が暗殺される。三浦公使と金弘集政権は閔妃事件の隠蔽を試みるが、アメリカ人やロシア人に目撃されたために露見して国際問題となり、民衆が日本と金弘集政権への反発を高める結果となった。各地で義兵が起きて政府軍や日本軍との戦闘が起き、金弘集は殺害される。李完用らはロシアと協力してクーデターを起こし、高宗をロシア公使館へと移す。高宗は1年以上ロシア公使館で執政を行い、露館播遷と呼ばれた。ロシアは鉱山や森林の権利入手、政府軍の訓練、露韓銀行の創設などで進出して、欧米諸国もロシアに続いた。李朝では高宗が権力を強化して独立の維持をはかり、国号を大韓と改めて、高宗は皇帝に即位した。ロシアへの接近や政府権限の弱体化は改革派の懸念を招き、徐載弼や李完用を中心とする改革派は近代化と自主独立を確保するために独立協会を設立する。独立協会は法治主義、産業の育成、皇帝権力の制限、政府権限の強化、愛国心などを主張して、公開討論会である万民共同会を開催した。独立協会は立憲君主制のもとでの国政改革を目的としたが、共和制の樹立が目的であるとする誤情報が守旧派によって流布され、皇帝勅令で独立協会は強制解散となる。のちに大韓民国の大統領となる李承晩も独立協会に参加しており、弾圧によって逮捕された。独立協会の活動の一部は、一進会や愛国啓蒙運動に引き継がれた。 ロシア帝国は清で起きた義和団の乱の後も満洲の占領を続け、朝鮮半島にも影響を強めて日本と対立した。日露戦争が始まると、日本軍は漢城を制圧して韓国政府に日韓議定書を調印させて、朝鮮半島での軍事行動と内政干渉を強めた。日露戦争で日本が勝利した結果、ポーツマス条約においてロシアは大韓帝国への日本の優越権を承認した。こうして日本は朝鮮半島への植民地政策を開始して、東洋拓殖という国策会社を設立する。東洋拓殖は、日本列島からの移民と大土地所有の農業経営を行った。 ロシア帝国以外の列強にも、日本の大韓帝国支配を承認させるために、日露戦争中にアメリカ合衆国と桂・タフト協定、イギリスと第二次日英同盟を結ぶ。引き換えとして、日本はアメリカ領フィリピンとイギリス領インド帝国を承認した。
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