大韓帝国船として建造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/02 14:28 UTC 版)
「光済 (船)」の記事における「大韓帝国船として建造」の解説
本船は、大韓帝国により日本の川崎造船所へ発注され、1904年(明治37年)4月に進水、同年11月に神戸で竣工した。「揚武」に続く大韓帝国軍で2隻目の軍艦とも数えられるが、税関監視や灯台見回り船が用途であり、武装も47mm速射砲2門と軽いものであった。韓国併合がされた1910年(明治43年)時点での所属は、大韓帝国の度支部(朝鮮語版)(財務省に相当)となっている。 1905年(明治38年)6月に建造地の神戸港から釜山港へ回航された。当初の乗員のうち船長・機関長・一等運転士(航海士)はイギリス人であったが、同年にイギリス人の総税務司(税関の長官)ジョン・マクレヴィ・ブラウンが退任帰国したのに続いて辞職した。同年12月に日本の韓国統監府が設置されると、日本海軍少佐が船長として乗務するようになった。1907年時点では乗員84人のうち士官の大部分が日本人で占められたが、運転士の一人には「揚武」元乗員の韓国人愼順晟が新たに採用されていた。下級船員には日本海軍の予備役下士官兵が乗船したほか、水夫や火夫等58人が韓国人であった。密輸取締、航路標識の地点選定や灯台への物資補給、漁業視察などの任務に従事したほか、韓国唯一の公船として韓国統監などの要人輸送にもしばしば用いられた。例えば1906年中には6回の航海を行っている。韓国併合直前の1910年8月には韓国船最初の無線電信設備を設置する改装工事が行われた(韓国併合後の同年9月に完了)。
※この「大韓帝国船として建造」の解説は、「光済 (船)」の解説の一部です。
「大韓帝国船として建造」を含む「光済 (船)」の記事については、「光済 (船)」の概要を参照ください。
- 大韓帝国船として建造のページへのリンク