大韓帝国外交顧問
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「ダーハム・W・スティーブンス」の記事における「大韓帝国外交顧問」の解説
1904年8月22日に第一次日韓協約が締結され、韓国は日本政府の推薦する外国人1名を外交顧問に任命しなければならなくなった。駐韓アメリカ公使ホレイス・アレンによる1901年の推薦に基づき、日本政府はスティーブンスを外交顧問に任命するよう韓国政府に推薦した。1904年11月、彼は大韓帝国の外交顧問に任命された。韓国領事はハワイで任命されるべきだという要請を彼は無視したが、それにもかかわらず1905年、ホレイス・アレンは彼をハワイ砂糖農園主組合(英語版)(HSPA)の会長F・M・スワンジーに推薦した。スワンジーは韓国人のハワイへの移民再開に関心があった。日本政府はハワイへの韓国人の移民を阻止しようとしており、スティーブンスにはそれを補助することを期待していた。だが、彼は当初移民再開を好意的に受け入れていた。1905年中頃、スティーブンスとスワンジーは東京で数回この件について会合したが、結局スワンジーの努力は実らなかった。 1905年後半にスティーブンスは、日本にとって不愉快でない、または日本の威厳に影響しない方法で実行できるのであれば、日本はアメリカ合衆国への日本人移民流入を制限する法律の制定を歓迎しハワイへの移住停止に賛成するだろうと声明を発表した。また、日本政府は代わりに移民を韓国または中国東北部に定住させることを望んでいると述べた。 大韓民国国家報勲処によると、彼は公式には韓国政府に雇用されていたが、日本のプロパガンダを進めるために日本から数万ドルを受け取り続けているとアメリカ人の間で言われていた。また、2009年の韓国の新聞によると、スティーブンスは1908年に伊藤博文から、米国での反日感情を宥めて韓国支配の正当性を知らしめる任務を任されていた。 1906年初頭、スティーブンスは韓国で働いていた日本人官僚木内重四郎と、日本が韓国を併合するまでにかかる期間について賭けをした。木内は3年と予測し、スティーブンスは5年と予測した。1910年半ばに韓国併合条約が調印されたので、スティーブンスの予測の方が正解に近かった。だが、彼は自らの予測が実現するのを見届けることはできなかった。
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