大接近期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 09:07 UTC 版)
大接近の和解 (The Great Rapprochement) とは、英米間において社会的・政治的な目標が合致した、1895年から第一次世界大戦が1914年に始まるまでの時期を指す。アメリカ国内の大規模なア-イルランド系カトリック教徒はアイルランド独立に向けた要求の主要基盤を提供し、特に選挙時には反イギリスの修辞表現を持ち込んだ。 大接近期間における最も顕著な関係改善の兆候は、米西戦争(1898年勃発)時におけるイギリスの行動だった。 当初イギリスはスペイン帝国およびキューバ全域の帝国植民地支配を支持していた、というのもアメリカの占領という脅威を認識していてアメリカによるキューバ領土獲得が西インド諸島にある大英帝国所有域内での貿易や商業によるイギリスの利益が損なわれる恐れがあると認識していたためである。しかしながら、アメリカがキューバの独立を認めるという純粋な保証(最終的にはプラット修正で定められた条件の下で1902年に実施)を行った後、イギリスはこの政策を放棄し、スペインを支持した他のほとんどのヨーロッパの大国とは異なり、最終的にはアメリカ側に就いた。その見返りとして、アメリカ政府はボーア戦争中にイギリスを支持したが、アメリカ人の多くはボーア側支持だったとされている。 米西戦争での勝利はアメリカに独自の帝国体制を与えることとなった。この新たな地位は、アメリカとイギリスが八カ国連合軍の一部として1900年から1901年に義和団の乱を鎮圧し、中国の清朝に租界(植民地)を続けさせた時に実証された。 先の内戦失脚でヨーロッパ市民が被った対外債務と損害賠償の支払いをシプリアーノ・カストロ大統領が拒否したことをめぐり、ベネズエラに対する数ヶ月の海上封鎖(1902年から1903年)がイギリス、ドイツ、イタリアによって実施された。カストロは、アメリカのモンロー主義がヨーロッパの軍事介入を阻止してくれるだろうと見込んでいたが、当時の米大統領セオドア・ルーズベルトはこのモンロー教書を介入自体ではなくヨーロッパの領土押収に関するものと見なしていた。 ルーズベルトはまた、ドイツとイギリスによるこの地域への侵入の脅威について懸念していた。アメリカの圧力下でカストロを引き下ろすことに失敗し、この事件を巡るイギリスとアメリカの報道に否定的な反応がますます高まったので、ルーズベルト大統領は封鎖国に妥協に同意するよう説得したが、ワシントン議定書の債務借り換えの詳細をめぐる交渉中で、封鎖を維持した。この事件は、ルーズベルト・コロラリーおよびその後のアメリカの棍棒外交やラテンアメリカにおけるドル外交の大きな推進力となった。 1907年から1909年、セオドア・ルーズベルト大統領は「グレート・ホワイト・フリート」を国際巡回させて、アメリカ外洋海軍の突出した力を誇示し、規模と火力でイギリス海軍に次ぐ2番目になった。
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