大密儀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 16:02 UTC 版)
大密儀は毎年9月のボエードロミオーンに行われた。4年ごとの大密儀は「ペンテテリス」として特に盛大に祝われた。入信の資格は、年齢、性別、自由人か奴隷かに関係なく認められた。ただし、流血の罪を犯していないことが条件だった。儀式加入のための費用は、紀元前4世紀後半には一人あたり15ドラクマが必要だった。これは当時のおよそ10日分の賃金に当たる。大密儀については、以下概ねブルケルト及びミュロナスに従って記述する。 ボエードロミオーンの14日、エレウシスの聖具(ヒエラ)がアテナイのアクロポリスのエレウシニオン神殿まで運ばれた。 15日(大密儀の第1日「アギュルモス」)、祭司長(ヒエロパンテス)が祭礼の幕開けを宣言する。 16日(第2日「ハラデ・ミュスタイ(海へ、密儀者よ)」)、入信者たちはパレロン(英語版)の入江で子豚と沐浴する。 17日(第3日「ヒエレイア・デウロ(犠牲をこちらへ)」)、デーメーテールとペルセポネーの二柱に犠牲を捧げて祈願した。 18日(第4日)は休息に当てられた。この日、入信者たちは翌日以降の儀式の教示を受けたほか、医神アスクレーピオスの祭祀である「エピダウリア祭」が催された。この祭祀は紀元前420年ごろエピダウロスからアテナイに導入されたもので、この経緯はやがて、アスクレーピオスがエレウシスの秘儀に4日遅れて到着したところ、人々は彼のために特別に準備的儀式を行ったという神話として形成されることとなった。 19日(第5日「ポンペー(大巡礼)」)、アテナイの墓地ケラメイコスからエレウシスまでの「聖なる道(ヒエラ・ホドス)」と呼ばれる約30キロメートルの道のりを行進する。女司祭が聖具を収めたキステと呼ばれる籠を掲げ、入信者たちはバッコイと呼ばれる杖を振りながらこれに付き添った。途中、ケピソス川の橋を渡る際に、入信者たちは卑猥な罵りを受けた。これは、イアムベーまたはバウボー(英語版)を記念したもので、この二人はそれぞれ別の伝承において、娘の喪失を嘆くデーメーテールを笑顔にさせていた。行列は道々「イアッコー、イアッケ!」と叫んだ。これはペルセポネーまたはデーメーテールの息子イアッコス(英語版)のことだという。日が落ち、暗くなってから行列は松明に照らされながらエレウシスに到着する。 20日 - 21日(第6-7日「テレタイ」)、入信者たちは昼間のうちに休息するとともに、断食に入る。断食は、コレーが誘拐されたおりのデーメーテールを記念するものだった。断食が終了すると、麦、水、ミントを含んだキュケオンと呼ばれる飲料が提供された(キュケオンの効能については後述)。祭儀堂テレステリオンにおいて本格的な儀礼が開始される。テレステリオン内にはアナクトロン(宮殿)と呼ばれる聖具の保管所があり、祭司長のみが入ることができた。 ミュロナスによると、密儀の核心部分は「ドロメナ(演じられたこと)」、「レゴメナ(語られたこと)」、「デイクニュメナ(明かされたこと)」の3つの要素からなっていた。ドロメナは神聖野外劇であり、デーメーテールとペルセポネーの物語が演じられた。終わりにプルート神殿の扉が開き、冥界からペルセポネーが現れてテレステリオンに向かい、入信者たちもそれに続いて中に入った。レゴメナについては短い典礼文であったと推測されている。デイクニュメナでは、アナクトロンが開いて、祭司長が聖具を示したと考えられている。聖具がどのようなものであったかは知られていない。 ブルケルトによると、密儀の核心部分は次の要素からなる。 入信者たちは祭司長によって地下から呼び出されるコレーを見る。 祭司長が神の誕生を告げる。「女神は聖なる御子をお産みになった。畏怖すべき女神が御子をお産みになった」。 静寂の中、祭司長が刈り取られた麦の穂を提示する。 21日に儀礼が終わると、パニキスと呼ばれる夜通しの饗宴となり、農耕発祥の地と言い伝えられていたラーロスの野で踊りが催された。 22日(第8日「プレーモコアイ」)、入信者たちは特別な器から献酒(英語版)を注いで死を敬った。 23日、すべての者たちは帰路についた。
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