外交官・政治家として
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「クレメンス・フォン・メッテルニヒ」の記事における「外交官・政治家として」の解説
1797年末より始まったラシュタット会議( - 1799年4月)に、オーストリアの全権大使として臨んだ。カンポ・フォルミオ条約でライン左岸に勢力をのばしたフランスに対し、ライン右岸の勢力範囲画定などを求めて交渉が続いたが合意には至らず、その間にナポレオンがエジプト遠征に失敗したこともあり、第二次対仏大同盟が結成されて戦争が再開された。1801年よりザクセンのドレスデンへ、1803年よりプロイセンのベルリンへ、1806年には大使としてフランスのパリに派遣された。 1809年より外相に就任する。フランツ2世の信頼が厚かったメッテルニヒは、1810年にナポレオン1世と皇女マリア・ルイーゼ(マリー・ルイーズ)との結婚の仲介役となった。しかし、ナポレオンがモスクワ遠征に失敗、さらにライプツィヒの「諸国民戦争」に敗北すると、反ナポレオン的な国際秩序の形成に尽力した。1814年より始まったウィーン会議において、オーストリア外相として中心的役割を果たし、国際政治における勢力均衡・反革命的な正統主義に基づくヨーロッパ国際秩序の創出を図った。ウィーン会議後も、ドイツでのブルシェンシャフト運動に対してカールスバート決議で抑圧を図るなど、自由主義・ナショナリズムを抑圧することで、ヨーロッパの平和・安定を追求した。四国同盟(のち五国同盟)を通じ大国間の協調に努めたが、スペイン立憲革命をめぐっては諸外国の対応が分かれた。1821年よりオーストリア宰相に就任した。翌年の1822年に皇帝フランツ1世を介してザーロモン・ロートシルトとその兄弟に男爵位を授与し、ロスチャイルド家を貴族とした。 メッテルニヒが追求した前近代的な国際秩序は、1820年代より動揺していった。中南米の独立運動に対しては反対の姿勢をとったが、イギリスやアメリカ合衆国が独自の立場から独立を支持し、中南米に多くの共和制国家が成立した。オスマン帝国からのギリシア独立も静観する姿勢をみせていたが、最終的にはロシア・イギリス・フランスがこれに介入、独立を果たした。さらに、1830年代よりヨーロッパ大陸でも工業化が本格化すると、新興のブルジョワジーが自由主義的改革を掲げるようになり、各国内部で反体制運動が激化していった。1848年2月に起こったフランス二月革命は、いわゆる「諸国民の春」を生じさせ、オーストリアでは三月革命(ドイツ語版、英語版)が勃発した。これによりメッテルニヒは宰相を辞任、イギリスのロンドンに亡命した。 1848年革命の熱狂は、欽定憲法の制定などの成果を残したものの、オーストリアでは反動側のヴィンディシュ=グレーツ軍が勢力を奪回(ウィーン十月蜂起)、自由主義的改革は進展しなかった。こうした中で、1851年にはオーストリアへの帰国を許された。1859年6月11日、ウィーンで死去した。
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