外交官政治家としてとは? わかりやすく解説

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外交官・政治家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 14:51 UTC 版)

クレメンス・フォン・メッテルニヒ」の記事における「外交官・政治家として」の解説

1797年末より始まったラシュタット会議( - 1799年4月)に、オーストリア全権大使として臨んだカンポ・フォルミオ条約ライン左岸勢力のばしたフランス対しライン右岸勢力範囲画定などを求めて交渉続いた合意には至らずその間ナポレオンエジプト遠征失敗したこともあり、第二次対仏大同盟結成され戦争再開された。1801年よりザクセンドレスデンへ、1803年よりプロイセンベルリンへ1806年には大使としてフランスパリ派遣された。 1809年より外相就任するフランツ2世信頼厚かったメッテルニヒは、1810年ナポレオン1世皇女マリア・ルイーゼマリー・ルイーズ)との結婚仲介役となった。しかし、ナポレオンモスクワ遠征失敗、さらにライプツィヒの「諸国民戦争」に敗北すると、反ナポレオン的な国際秩序形成尽力した1814年より始まったウィーン会議において、オーストリア外相として中心的役割果たし国際政治における勢力均衡反革命的な正統主義に基づくヨーロッパ国際秩序創出図ったウィーン会議後も、ドイツでのブルシェンシャフト運動に対してカールスバート決議抑圧を図るなど、自由主義ナショナリズム抑圧することで、ヨーロッパの平和・安定を追求した四国同盟(のち五国同盟)を通じ大国間の協調努めたが、スペイン立憲革命めぐって諸外国の対応分かれた1821年よりオーストリア宰相就任した翌年1822年皇帝フランツ1世を介してザーロモン・ロートシルトとその兄弟男爵位を授与しロスチャイルド家貴族とした。 メッテルニヒ追求した前近代的な国際秩序は、1820年代より動揺していった。中南米独立運動に対して反対姿勢をとったが、イギリスアメリカ合衆国が独自の立場から独立支持し中南米多く共和制国家成立したオスマン帝国からのギリシア独立静観する姿勢をみせていたが、最終的にはロシア・イギリス・フランスがこれに介入独立果たした。さらに、1830年代よりヨーロッパ大陸でも工業化本格化すると、新興ブルジョワジー自由主義的改革掲げるようになり、各国内部反体制運動激化していった。1848年2月起こったフランス二月革命は、いわゆる諸国民の春」を生じさせ、オーストリアで三月革命ドイツ語版英語版)が勃発した。これによりメッテルニヒ宰相辞任イギリスロンドン亡命した1848年革命熱狂は、欽定憲法制定などの成果残したものの、オーストリアで反動側のヴィンディシュ=グレーツ軍が勢力奪回ウィーン十月蜂起)、自由主義的改革進展しなかった。こうした中で、1851年にはオーストリアへの帰国許された。1859年6月11日ウィーン死去した

※この「外交官・政治家として」の解説は、「クレメンス・フォン・メッテルニヒ」の解説の一部です。
「外交官・政治家として」を含む「クレメンス・フォン・メッテルニヒ」の記事については、「クレメンス・フォン・メッテルニヒ」の概要を参照ください。

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