地域に密着した共楽館
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昭和初期、映画関係で特筆すべき動きとしては、1928年(昭和3年)に日立児童教育映画会が組織され、日立町内の小学校児童を対象にして月1回、映画会が共楽館と本山劇場という日立鉱山所有の劇場で行われるようになったことが挙げられる。当時、庶民の娯楽の代表格となっていた映画であったが、反面、風紀上の問題が大きいとの非難する意見も強かった。とりわけ映画の内容を真似た不良行為を行う生徒が現れたとのことで、小学校児童は劇場、映画館への立ち入りが禁じられ、映画館前では学校の補導係の教師が監視していた。しかし映画に児童が感化されやすいということは、逆にいえば児童の情操教育に映画が活用できるということである。早くも大正末期には視聴覚教育として文部省主催の映画についての講習会と試写会が開催され、日立からも教師が参加し、その後、共楽館と本山劇場を会場にして、東京から借りてきたフィルムを毎月1回、小学校児童に上映するようになった。当時はまだサイレント映画の時代であったので、活動弁士は教師が務めた。この流れを受けて1928年(昭和3年)には日立鉱山庶務課の野村留男を会長として日立児童教育映画会が組織された。日立児童教育映画会の結成は日立鉱山側の積極的な関与が見られ、これは一山一家をモットーとし、地域社会とのつながりを重視する日立鉱山の姿勢が伺われる。 日立児童教育映画会主催の映画会は、先述のように日立鉱山所有の劇場である共楽館と本山劇場を会場として月1回行われた。映画会の当日は午前は低学年、午後は高学年を対象とした映画が上映された。映画会の会費として児童1人当たり2銭を徴収し、これはフィルムのレンタル料、送料に充てられた。映写技師は日立鉱山職員が当たり、人件費、施設、映画上映設備の使用料は無料であった。生徒たちに見せるフィルムは主に官庁関係から借りていたが、後に戦時色が強くなってくると情報局から借りるようになった。また大阪毎日新聞、東京日日新聞から協力、後援の声がかかるなど、多方面からの協力を仰いでいた。そして日立児童教育映画会は児童から集めた会費の余剰金でポータブル映写機と幻灯機を購入し、地域や日立町周辺の小学校でも映画会を行うようになった。日立町の日立児童教育映画会の活動は全国的に見ても映画教育の先進的な事例であり、その活動内容も高く評価されており、1943年(昭和18年)には文部省内に設立された大日本映画教育会から、日立児童教育映画会の野村留男は映画教育功労者として表彰を受けることになった。 また日立町内の小学校は、映画会以外にも音楽会、学芸会などの会場として共楽館を積極的に利用した。1933年(昭和8年)1月、7月には共楽館で日立町の小学校の合同音楽会が行われた。翌1934年(昭和9年)12月9日にはオール日立小学校連合会音楽大会が開催され、会の中では東京音楽学校から招いた特別ゲストによるカミーユ・サン=サーンスのサムソンとデリラ独唱が披露されるなど、極めて盛大に行われた。それぞれの音楽会の各小学校の出し物は1校あたり20を越え、生徒や父母で共楽館は立錐の余地も無かったと伝えられている。また共楽館は地域の各小学校の音楽会、学芸会、そして児童向けの公演会の会場として数多く使用され、学芸会の会場としては戦前のみならず戦後まで活用された。 日立に住む人々にとって、共楽館は夏の山神祭や正月興行の会場の1つとして親しまれた。先述のように通常は有料である共楽館の公演も山神祭と正月興行時には無料であり、とりわけ7月半ばの山神祭は大勢の人々を集め、共楽館やその周辺の祭り会場付近は人の波で埋め尽くされた。また1935年(昭和10年)3月、多賀蓄音機商組合の設立記念事業として新民謡日立小唄、助川節をポリドール・レコードから発売するとともに、東海林太郎、新橋喜代三らを招いて共楽館で日立小唄、助川節などの演奏会を開いた行事なども、共楽館と地域との係わり合いの一環として挙げられる。
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