地名由来と地域のあゆみ
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「王司 (下関市)」の記事における「地名由来と地域のあゆみ」の解説
おうじそん王司村廃止日1939年5月17日 廃止理由編入合併小月町、清末村、王司村、勝山村、吉見村 → 下関市 現在の自治体下関市 廃止時点のデータ国 日本 地方中国地方中国・四国地方 都道府県山口県 郡豊浦郡 総人口2,866人(国勢調査、1935年) 隣接自治体下関市豊浦郡勝山村、清末村 王司村役場所在地山口県豊浦郡王司村 ウィキプロジェクト テンプレートを表示 王司という地名は、地区南西端にある四王司山(標高392m)にちなむ。四王司山は、神功皇后が三韓征伐の際に四天王を勧進したという伝説が残る山で、また、9世紀に清和天皇が長門・石見・出雲・伯耆・因幡の5国に1体ずつ毘沙門天像を配したとき、そのうち1体を安置した場所でもある。ただし、四王司山・山頂への主要な登山ルートは長府の松小田と勝山の勝山御殿跡からの2ルートである。 江戸時代には、海側で長府藩による塩田が営まれた。 町村制施行により豊浦郡豊東前村となり、後に王司村に改称されたが、1939年(昭和14年)に小月町などとともに(旧)下関市へ編入合併した。
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地名由来と地域のあゆみ
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「清末 (下関市)」の記事における「地名由来と地域のあゆみ」の解説
きよすえそん清末村廃止日1939年5月17日 廃止理由編入合併小月町、清末村、王司村、勝山村、吉見村 → 下関市 現在の自治体下関市 廃止時点のデータ国 日本 地方中国地方中国・四国地方 都道府県山口県 郡豊浦郡 総人口2,674人(国勢調査、1935年) 隣接自治体下関市豊浦郡小月町、王司村、勝山村、内日村、豊東村 清末村役場所在地山口県豊浦郡清末村 ウィキプロジェクト テンプレートを表示 清末という地名については『櫟木氏文書』に清末別府と見られる。地名の由来については、湧水(清水)があり水が絶えず[要出典]、神功皇后の三韓征伐の際に渡海のための船を作るために厚狭郡で大樹を切り出したが、大樹は倒れ清水の池まで末枝部分が流れたため組み合わせて清末となったとする説がある。また、『地名淵鑑』には名田(田の所有者の名前で呼ばれる名前の田)を由来とするとある。 江戸時代には、長州藩孫藩(長府藩支藩)である清末藩が設置され、藩庁がおかれるとともに藩校の育英館がおかれた。藩校は現在の清末小学校につながっている。また、国道491号以東の大部分は、江戸時代の干拓によって拓かれた土地である。 町村制施行により豊浦郡清末村となったが、1939年(昭和14年)に小月町などとともに(旧)下関市へ編入合併した。
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「王喜 (下関市)」の記事における「地名由来と地域のあゆみ」の解説
1665年に干拓を行った際、安全祈願のため龍神を祭る祠を作ったが、完成年に大干ばつに遭ったため、これを大明神として新築した。王喜は「竜王歓喜」の意味から取られ、新田の名を王喜新田に改めた。その新田名が、町村制施行時の村名に採用された。明治に入って成立した厚狭郡王喜村は、1950年(昭和30年)に吉田村とともに下関市に編入した。 1937年に、干拓地の一部に逓信省管轄の下関飛行場が開港。のち陸軍に移管したが、終戦後は自衛隊基地となり現在に至っている。
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地名由来と地域のあゆみ
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「吉田 (下関市)」の記事における「地名由来と地域のあゆみ」の解説
古くは吉井と呼ばれたが、やがて吉田と改められた。時期によっては良田とも表記され、昔からの田園地帯であった。『下関の地名』には良田から「地味の豊かなよい田」、『山口県地名考』には葭から「湿った田」が由来とある。 江戸時代、現在の下関市域の大半は長府藩および清末藩の所領であったため、吉田は萩藩領の最西端の拠点として位置づいた。 萩藩により吉田宰判(代官所、美祢郡南西部と厚狭郡西部を担当)が設置され、山陽道の宿場町(吉田市)として栄えた。 幕末には奇兵隊の駐屯地となった。 明治に入り、吉田村と吉田地方(じかた)村が合併して厚狭郡吉田村(新制)が成立したが、1950年(昭和30年)に王喜村とともに下関市に編入した。
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地名由来と地域のあゆみ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 08:28 UTC 版)
小月の地名は『武久氏文書』に「小津木」、『忌宮神社文書』に「小月」とある。由来は山の尾(裾野)の最後にあったために「尾付」と称したのが「小月」と転じた説、高尾山まで船が着いたことから「高尾着」と呼ばれていたのが省略されて「尾着」→「小月」となった説、小槻から転じた説などがある。古くから山陽道の宿場町として栄え、明治期に入って国道が整備されると、山口県中部・北部の菊川・豊田・萩へつながる道の分岐点として位置づくことになった。もとは旧豊浦郡に属する村(小月村)であったが、町制施行ののち1939年(昭和14年)に下関市へ編入した。
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