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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:49 UTC 版)
1979年には生沢徹が結成したi&iレーシングに移籍。生沢から「一緒にヨーロッパで戦おう」と言われたことが決め手となった。ただしヒーローズレーシングから半ば強引に引き抜かれる形でチームを移籍したため、ヒーローズ側の圧力により当時の全日本F2で最強エンジンと呼ばれたケン・マツウラレーシングサービス チューンのBMWエンジンの供給を受けられず、同年と1980年の全日本F2では成績が低迷する。富士GCシリーズでも同じ理由でマツダエンジンを使用することになったが、こちらでは1979年にチャンピオンを獲得した。 1981年からは生沢の伝で、前年よりヨーロッパF2にエンジンサプライヤーとして復帰したホンダのワークスエンジン供給を受けられるようになり、同年と1982年には全日本F2選手権・鈴鹿F2選手権でシリーズチャンピオンを獲得。 生沢のチームに移ってから4年目の1982年、中嶋が生沢のチームに入った最大の目的であるヨーロッパF2選手権に参戦し、緒戦で2位表彰台を獲得するが、資金不足となり成績は下降。6月20日のホッケンハイムリンクでのレースを最後に遠征は打ち切られ、ヨーロッパから撤退。中嶋の「2回目のヨーロッパ」は2ヶ月間の5戦のみで終わってしまい、「確かに資金は無くなったが、中嶋にも活気がなくなって、彼のやる気が感じられなくなったからやめたという部分もあった」と言い分を語る生沢との関係も悪化した。チームの財政状況の悪さは、移動する飛行機代など雑費を中嶋自らが支払っていたという事に現れていた。中嶋は「生沢さんの所で3年、一生懸命やって来たのはヨーロッパに行きたかったから。やっと行けたと思ったら途中であっけなく終わっちゃって、それはないぜって感じだった。そのために一生懸命やって来たのにね」と心境を述べ、「人に頼っていてはヨーロッパに行けないとわかった。自分でやるしかない」と中嶋は決意する。生沢からは翌年も全日本F2を一緒に戦ってほしいと引き留められたが、生沢のチームを出ると決めていた中嶋は到底実現不可能な額の契約金をあえて要望して断念させた。その一方で、「生沢さんの所ではメインのこと(欧州フル参戦)はポシャちゃったけど、ホンダさんと知り合えてホンダエンジンを使えるようになったという副産物が得られた」と謝意も述べている。また、この時にはヨーロッパ遠征でほぼ使い切っていて無一文の状況だったとも述べており、「でも、自分でやるって言ってもどうやるのって感じ。カネが一銭も無いんだもの。ゼロからもう一回全部自分でやり直し」の状況だったという。 1983年、破格の契約金(当時3000万円と報道される。中嶋本人は後年に江川卓選手の年俸より高い金額だったと表現している。)を提示したハラダ・レーシングカンパニーに移籍する。「お金のために身を売ったのはこの時が初めてで最後」だと言う魅力的な額であったが、移籍の決め手の一つはハラダレーシングのオーナーから「ヨーロッパ」という言葉が出たからであった。 i&iでの中嶋のドライビングを評価したホンダからは引き続きワークスエンジンの供給を受けていたが、シーズン序盤にして「またヨーロッパに行く」という願いはこのチームでは叶わないと認識してしまった中嶋とチームの関係は不協和音が鳴り始め、ヨーロッパ行きどころでは無いばかりか、全日本F2でランキング4位に終わる。チャンピオンは生沢が中嶋の代わりに起用したジェフ・リースのものとなった。 同年に得た契約金を元手にし、中嶋は自らの会社中嶋企画を設立。F1に行くための準備を再構築し始める。 1984年、ヒーローズレーシングに復帰。そのときに「車体はヒーローズが提供し、資金は中嶋企画がまかなう」という当時としては前例のない契約形態をとった。この時点でBMW勢より優位となっていたホンダエンジン、中嶋のテクニック、ブリヂストンタイヤのパッケージは全日本F2選手権シリーズを制圧し、以後1986年まで全日本F2選手権で3連覇を達成。実質的に中嶋に対抗出来た日本人レーサーは星野一義のみとなっていた。この時期についてF1デビュー後の中嶋が取材にて「日本では刺激を受けられなくなって、だから自然と、日本での安定した収入よりF1への挑戦と刺激を求めるようになっていた」と述べている。ただしホンダがエンジン供給しない富士GCシリーズでは依然としてケン・マツウラレーシングサービスチューンのBMWエンジンの供給を受けられず、劣勢であった。
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