F1への挑戦とは? わかりやすく解説

F1への挑戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 19:07 UTC 版)

M-TEC」の記事における「F1への挑戦」の解説

1987年昭和62年)から1988年昭和63年)にかけて、無限単独でF1用V8エンジンの製作に入りティレル・018全日本F3000使用されレイナード89D改を使用してテスト走行行った。しかし、これと前後して後述する無限ホンダV10エンジン計画動き出したため、結局このときに製作されV8エンジン実戦デビューすることはなかった。 1992年から1993年まで、ホンダ前年ティレル供給したV10エンジン「RA101E」の開発を無限が引継ぎ、「MF351H」と改称したエンジンフットワーク供給することを発表したエンジンブランド名は「無限-ホンダ("MUGEN-HONDA")」。ホンダ1992年限りでF1から撤退したが、その後も完全ではないものの、技術供与エンジニア派遣行なっていた。 1994年ロータス供給行った新設V10エンジンの「MF351HD」を投入した第12戦イタリアGPジョニー・ハーバートが、予選4位を得る速さ発揮するが、決勝ではスタート直後ジョーダンエディ・アーバイン追突されスピン赤旗スタートとなったが、新エンジンレースカー搭載された1基しかなく、旧型エンジン (MF351HC) を積んだTカースペアカー)でのピットスタートとなってしまった。結局この年1度入賞することはできず、資金難苦しんだチームこの年をもって撤退した排気量が3,000 cc縮小され1995年には、リジェに新エンジン「MF301H」を供給1996年モナコGPでは、荒れたウェットレースをオリビエ・パニス制し無限-ホンダに初勝利をもたらした。しかし、翌1997年リジェ買収したプロストはオールフレンチチームを目指していたため、当時プジョーエンジンを使用していたジョーダン交渉の末、エンジンスワップする形となった1998年からジョーダンエンジン供給することになり、同年ベルギーGPで、元ワールドチャンピオンデイモン・ヒル勝利し、このシーズンチームコンストラクターズランキングで4位となった。翌1999年ハインツ=ハラルド・フレンツェンが2勝を挙げ終盤までドライバーズチャンピオン争いに絡む活躍見せコンストラクターズランキング3位にまで躍進した。 ジョーダンへのエンジン供給2000年まで続いたが、その年よりホンダがエンジンコンストラクターとして復帰したこと、チーム代表エディ・ジョーダンが、B・A・R同等のワークスエンジンをホンダ要求2001年からの供給決まったことで、無限のF1活動2000年限り終了した。 なお、F1公式サイトでは"MUGEN HONDA"表記2000年コンストラクターズランキングとなっており、テレビ中継表記は"HONDA"と記載していた。 これらの一連のF1参戦は、当初「(ホンダF1の)第2期得た経験を、いつかF1に復帰した際にそのプロジェクト引き継ぐ」ことを目的としてスタートしたが、実際に第3期活動は無限とは全く関係のないところでスタートし無限ホンダに関わっていた人間には(ホンダ人間ですら)全く声がかからなかったという。背景にはホンダ社内派閥争いがあったと目されており、実際に2002年頃から無限ホンダ関係者第3期活動参加するうになるものの、結果として苦戦を強いられることになった

※この「F1への挑戦」の解説は、「M-TEC」の解説の一部です。
「F1への挑戦」を含む「M-TEC」の記事については、「M-TEC」の概要を参照ください。

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