F1への交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 07:06 UTC 版)
「マーティン・ブランドル」の記事における「F1への交渉」の解説
F3で実績を積んだブランドルの元には、F2でチャンピオンを狙えるチーム体制を持つラルトワークスのロン・トーラナックからも「うちに来れば初年度にチャンピオンを獲れる。うちのラルト・ホンダをテストしないか」と言うオファーもあったが、このテストドライブの条件として「この走行の前に1984年のラルトとの契約書にサインをすればテスト・ドライブができる」というトーラナックからの条件があり、良いオファーだったがブランドルは即答できなかった。理由は先にテストしたF1のティレルから「まだシートは約束できないけど次のテストにも来てほしい」と言われていたことが影響した。ケン・ティレルは老練な交渉術でブランドルに対し「君には才能がある。君をできるだけ長い間面倒見よう」など若手レーサーが言われれば有頂天になるような誘い方でキープするが、他にもジョナサン・パーマーやジョン・ワトソンなど何人も候補がおり、契約サインはなかなか書かせないという交渉術で「この3~4ヶ月、このさき一体どうなるのかと毎日気が気じゃない数か月だった」とブランドルは述べている。この時点ではまだ実家の「ジョン・ブランドル商会」で週に4台は新車を売りさばくセールスマンとして仕事をし、やりがいもあり、1983年クリスマスの時点ではレーサーとしてプロにならず、家業を大きくするのも悪くないと考えることもあったという。開幕が近づいてようやくケン・ティレルからファクトリーに来るよう呼び出されると、1984年から3年契約の正式書類が準備されており、多くいたティレルの候補の中で最初に本契約を結んだ。ブランドルが断ったF2ラルト・ホンダには代わりにロベルト・モレノが加入することになった。
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