第3期活動 (1989年 - 1991年)
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1989年、一時休止から2年間のブランクをあけて再びグッドイヤー勢とのタイヤ戦争を開始した。グッドイヤーに比べタイヤ供給料を安くする営業戦略をとり、これによりチーム運営資金が決して潤沢ではない新参チームや、スポンサー獲得が上手くいかないチームへ供給した。スクーデリア・イタリア、ブラバムが各1回ずつ表彰台を獲得し、ミナルディも6pts獲得する活躍を見せた。その他ユーロブルン、ザクスピード、オゼッラ、コローニに供給するも、これらは上位に食い込めるほどの戦闘力がなかった。 1990年は新たにティレルへの供給が開始された。開幕戦アメリカGPではミナルディのピエルルイジ・マルティニが予選2位、開幕直後で前年型のティレル・018を駆るジャン・アレジがスタートでトップに立ち、34周目までラップリーダーを守る大活躍を見せ、2位表彰台を獲得、モナコGPでも同様に2位獲得を果たした。コースや温度環境によって、ライバルのグッドイヤーよりも高いパフォーマンスを発揮したこともあり、特に市街地コースでの性能は非常に高かった。又、ティレルではチームメイトの中嶋悟も6位を3度獲得した。 1991年はブラバム、スクーデリア・イタリア、ティレルに加え、5年ぶりにベネトンにも供給した。レースに関しても前年同様にストリートコースの特性があり、開幕戦アメリカGPではベネトンのネルソン・ピケが3位、ティレルのステファノ・モデナ、中嶋悟が4位、5位とまずまず好調なスタートを切った。しかし、路面高温時の性能に難があり「夏バテタイヤ」と揶揄されたほどであり、比較的気候が涼しい地区では良いパフォーマンスを示したものの、気温の高いコースではパフォーマンスに難があったことは否めなかった。最後の勝利は1991年カナダグランプリのピケであり、ウイリアムズのナイジェル・マンセルがファイナルラップで突然のストップによって得た勝利ではあったものの、それまで2位を走行していたことからも、さらには同じピレリタイヤを使用していたティレルのステファノ・モデナが同コースで2位に入り、ピレリ勢が1-2フィニッシュを飾った。気候の涼しいカナダすなわち、路面温度が低い状況での活躍は当時のピレリタイヤの極端な特性について語られるエピソードの一つともいえる。又、当時予選用(Q)タイヤを使用後、表面をヤスリのような工具で削り「皮むき作業」を施して再使用していた事もあった。 ピレリは1991年を以って、そしてタイヤ供給した参戦数200戦目にしてF1から撤退した。
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