名鉄グループの形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:14 UTC 版)
戦後の混乱が収まるにつれて、名鉄も他の大手私鉄と同様に事業の多角化を図るようになり、その手始めとして、戦時中に計画が頓挫していた新名古屋駅(現・名鉄名古屋駅)の駅ビル建設に着手して百貨店を併設した。当初の計画では、地元の老舗百貨店松坂屋にテナントとしての出店交渉を進めたが不調に終わり、自前での百貨店経営を決意して、電鉄系百貨店の元祖である阪急百貨店の全面的な協力 を得て1954年(昭和29年)12月に名鉄百貨店を開業し、流通業界へ進出する足がかりとした。その後も沿線の団地を手始めに名鉄ストアー を開業して、駅の改修にあわせて順次出店を進めた。 1960年代になると、沿線各地の開発をはじめ、北陸地方への進出を図るため、現地の鉄道会社を中心に提携を持ちかけていった。手始めに福井鉄道を傘下に収め、当時、労働争議で揺れていた北陸鉄道へは労務管理のスペシャリストを派遣して徐々に労使の意識を「名鉄グループ」寄りへと導いていき、のちに傘下入りさせるなど、経営に深く関わっていった。富山地方鉄道に対しても経営(資本)参加を持ちかけ、中古車両(3800系=富山地鉄14710形)の融通や看板列車「北アルプス号」の立山駅乗り入れなどさまざまな経営支援を行ってグループ内への取り込みを図ったものの、良好な会社関係の構築以上には進展せずに終わり、結果として富山県への進出は1980年(昭和55年)ごろと大幅に出遅れることとなった。 他の地域への進出は名鉄側からアプローチしたものよりも、先方から経営参加を呼びかけられる例が多かった。前述の北陸鉄道の争議終結によって「労務管理の土川(名鉄)」と当時社長であった土川元夫の評判が地方交通事業者の間で一気に広がり、経営に行き詰まった会社が「立て直し」を依頼するケースが相次いだ。その代表例としては宮城交通・網走バスなどが挙げられ、それまで東北・北海道には進出の足がかりもなかっただけに、名鉄側も積極的に応じた。また、海外への進出も手がけるようになり、香港・サイパン・ミクロネシアには現地法人(観光施設・ホテルなど)を次々に立ち上げていった。 グループ形成のもう一方の柱として、名鉄本体から現業(保守)部門を分社化する形で独立させた事業がある。鉄道車両の保守・修繕・改造部門を分社化した「名鉄住商車両工業」、信号の保守部門を独立させた「名古屋電気工業」(現・名鉄EIエンジニア)、バスの整備部門をグループ内のトラック・タクシー会社と共通化して一般(自家用車)にも開放した「名鉄自動車整備」など、従来の鉄道・バス関連の保守事業で培った技術を使い、他社・一般向けの仕事も請け負うことで独立採算制(コスト部門から脱却して利益を生み出す仕組み)を導入するなど、1960年代からユニークな試みも行われた。また、分社化に際しては名鉄の100%子会社とはせず、それぞれ関係の深かった取引先からも出資を募って『合弁企業』の形態を基本とし、その点でも、昨今の私鉄各社に見られる保守部門等の分社化とは一線を画すものであった。
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