名鉄グループ加入と国有化
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「豊川鉄道」の記事における「名鉄グループ加入と国有化」の解説
倉田なき後は社内の混乱が続いた。役員から倉田派が一掃され大株主の東京派に占められるようになると社内は不穏な状態になっていた。後任専務となった鉄道省の官僚であった瓜生卓爾はめったに出社することもなく、実際の業務は同じ官僚出身の奈良原吉之助の手で行われた。そして社内の倉田色を一掃せんとはかり、1935年8月新体制に迎合していた水田吉田駅長を運輸課長に抜擢し、さらに役員の報酬をあげたので、従業員達は水田の交替と待遇改善を求め、サボタージュを開始した。この交渉は難航しストライキ寸前までいった。ところが水田吉田駅長が横領の容疑で豊橋署に召喚されたことにより事態は急転した。9月の労使交渉は警察の立ち会いのもとでおこなわれた。その結果瓜生専務は水田吉田駅長の解職と従業員の昇給および組合活動を認め、組合側の勝利に終わった。 だが騒動はおさまらなかった。11月組合の幹部たちが休職させられたことに端を発し、サボタージュがはじまった。これに対し会社側は全員の解雇を通告した。従業員は反発し事実上のストライキとなった。再度警察が介入し労使交渉の結果、休職と解雇の撤回となりおさまった。しかし1937年(昭和12年)にも再発し、役員対従業員の対立ばかりでなく役員対株主の対立も引き起こし瓜生専務の解任を要求されるなどごたごたが続いていた。こうした事態に嫌気のさした東京海上はついに経営から手を引くことを決め、1938年(昭和13年)4月名古屋鉄道に株式を譲渡することになった。この結果豊川鉄道は鳳来寺、田口両鉄道とともに12月5日に名鉄グループに入り、藍川清成が社長に就任することとなったのである。 1937年8月に三信鉄道の大嵐 - 小和田間が開通し、東海道本線豊橋駅と中央本線辰野駅は豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道の4鉄道により結ばれることになった。ただ運賃の高さがネックであった。まもなく地元からこれら四鉄道の国有化の運動がはじまる。まず1939年(昭和14年)4月に飯田市長を会長とする「四鉄道国営促進下伊那促進期成同盟会」が結成され10月には鉄道省に陳情をおこなった。続いて1940年(昭和15年)4月に「四鉄道国営促進上伊那促進期成同盟会」が、10月に「信遠三国鉄移管期成同盟会」が結成され盛んに運動がおこなわれた。そのかいあって第74・75回帝国議会で4鉄道の買収の建議案が可決されたが、多額の公債発行が必要とされるため鉄道省は難色を示し先送りされてしまった。 しかし1942年(昭和17年)12月の第25回鉄道会議において4鉄道買収案は可決され、同月の第81回帝国議会の協賛を得たのち、1943年(昭和18年)3月6日に交付された第81回帝国議会法律第24号(12鉄道買収公債に関する法律)により8月1日豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道の路線が飯田線として国有鉄道に移管され、遅れて兼営のバス事業も豊橋乗合自動車に譲渡した。こうして事実上交通事業を閉業した豊川鉄道株式会社は1944年(昭和19年)3月1日、名古屋鉄道に合併されて法人として消滅した。
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