吉野川分水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 04:50 UTC 版)
紀州ではこのように紀の川を有効利用した新田開発が行われていたが、大和北部の奈良盆地は紀の川のような水量が豊富な大河は無く、大和川などは渇水時には容易に水不足に陥り、旱魃による被害が起こり易かった。この為、農民は古くから大小様々なため池を大和川流域に建設。さらに隠し井戸を造って水を確保するという苦労を長年続けていた。他の地域がたとえ晴天続きの順調な天候であっても、少雨地帯である奈良盆地では却って旱魃を招くという皮肉な状況であり、この事を指して人々は『大和豊年米食わず』と囁いていた。 奈良盆地に暮らす住民にとって、滔々と流れる紀の川の水は何者にも替えがたい魅力的な水であった。そして、『奈良盆地に紀の川の水が引けないか』という願望となり、やがてそれは「吉野川分水構想」へと繋がっていった。最初に発案したのは高橋佐助であり、元禄年間に構想をまとめている。その後寛政年間には角倉玄匡が再度実地調査を行っているが、何れも中途で挫折した。幕末から明治時代初期には吉野郡下渕村の農民達が分水計画を立ち上げ、更に辰市祐興も同様の計画をまとめた。これらの計画は明治政府も注目し実際に実施計画調査を行っているが、和歌山県の反発もあり中断。その後奈良県は名張川流域からの分水を計画し、「宇陀川分水」計画も策定したが財政難や水利権を持つ京都府の反対でこちらも挫折した。この様に「吉野川分水」は何度挫折しても再び構想される、奈良県民300年の悲願となっていった。 大和国・奈良県側からすれば『奈良県に降った雨が流れる紀の川の水を、使うのは当然』という意識もあった。だが紀伊国・和歌山県側はこの考えに猛反発した。紀の川は最大流量と最小流量の差(河況係数という)が日本一大きい。雨が降るのは6月~9月の時期に集中し、その時期に降らなければ確実に水不足を招く。かといって降りすぎれば確実に水害を招く厄介な河川でもあった。更に新田開発は成功してもそれは紀の川に近い氾濫原での事であり、川から遠い地域や山裾に近い地域は慢性的な水不足を受けており紀の川流域にもため池は多かった。この為水はあるようでないというのが紀州の本音でもあり、『渇水どころか水害の被害も受けている。水害を受けない分大和のほうがマシだ』として「吉野川分水」には強硬に反対した。 1886年(明治18年)には奈良県議会で「吉野川分水調査計画」が議決され、和歌山県との交渉に臨むが和歌山県はたとえ洪水時であろうとも『紀の川に注ぐ水はたとえ、その一滴たりとも余人の勝手は許さず』(大阪毎日新聞・昭和4年4月18日付)として頑強に抵抗。遂には両県による水紛争に発展し1917年(大正4年)・1926年(大正15年)・1929年(昭和4年)・1941年(昭和16年)と4度に亘る水紛争・提訴運動が勃発した。紛争の中で奈良県は和歌山県の強硬な反対理由を精査するうちに、水が潤沢と思われた和歌山平野も奈良盆地とそう変わらないことを知り、両県が同時に水需要を満たす計画で無い限り吉野川分水は不可能という認識が生まれた。だが、この問題が解決するのは戦後を待たなければならなかった。
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