吉本復帰以降とは? わかりやすく解説

吉本復帰以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:08 UTC 版)

笑福亭松之助」の記事における「吉本復帰以降」の解説

1967年3月吉本社長となった八田竹男幹部の中邨(なかむら秀雄呼び戻され吉本復帰新喜劇や「ポケットミュージカルス」の台本執筆をしばらく担当したほか、芸人たち幕間コント演じた4代目染丸は当時演目のうち、歌舞伎パロディや、浪曲漫才宮川左近ショーをもじった「寺川右近ショー」などを記憶している。やがて、観客新喜劇求める「個人演芸展示路線と、之助の志向する芝居あり方隔たり出たことや、かつてと異なり専業台本作家充実したことから、自ら退団申し出て落語などのひとり舞台専念する1970年代以降これまでの落語演じ方笑い取れなくなってきたと気づいた之助は、テレビCM番組の内容こき下ろす漫談調の新作落語『テレビアラカルト」(別名『仮面ライダー 』バカボン』)を創作し落語家として人気得たまた、6代目立ち上げたセルシー落語会繁昌亭」の出番組み(でばんくみ)を引き継ぎ後身育成携わった。若い観客発掘積極的に取り組み心斎橋筋2丁目劇場開場時は、ジーンズの上下を着て帽子サングラス正体隠し落語披露していた。 1996年6月から9ヵ月間、夜のニュース番組ニュースステーション』(テレビ朝日系)の金曜日コメンテーター担当し、同番組では中継レポーターにも挑んだ高速道路サービスエリア停車している自動車を「45台」と紹介したところ、キャスター久米宏が「暗いのにどうして45台とわかったのですか」と問うたので「ディレクターがそういえといったのです」と答えて久米笑わせた2000年1月4代目林家染丸とともに若手勉強会落語はやらせ隊』の顧問となる。之助自身なんばグランド花月ではじめ落語演じたのは2007年6月28日だった。2008年8月6日トリイホールにて自身芸能生活60周年記念する落語会『五世 弟子生活六十年記念の会 自称天然記念物認定開催80歳を過ぎて40分を超えるネタ演じ映画監督をつとめ、ブログ開設して自ら積極的にメッセージ発信するなど、エネルギッシュ活動していた。2009年6月には、若手に交じって賞レースS-1バトル」に挑戦している。2016年90歳で初の著書上梓した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}晩年長老派教会ある日キリスト改革派甲子園教会信徒となり、家族揃って教会通っていた[要出典]。 2019年2月22日午前3時過ぎ、老衰のため、兵庫県西宮市病院死去93歳没。

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