吉本復帰以降
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1967年3月、吉本社長となった八田竹男や幹部の中邨(なかむら)秀雄に呼び戻され、吉本に復帰。新喜劇や「ポケットミュージカルス」の台本執筆をしばらく担当したほか、芸人たちと幕間のコントを演じた。4代目染丸は当時の演目のうち、歌舞伎のパロディや、浪曲漫才の宮川左近ショーをもじった「寺川右近ショー」などを記憶している。やがて、観客が新喜劇に求める「個人演芸の展示」路線と、松之助の志向する芝居のあり方に隔たりが出たことや、かつてと異なり専業の台本作家が充実したことから、自ら退団を申し出て、落語などのひとり舞台に専念する。 1970年代以降、これまでの落語の演じ方で笑いが取れなくなってきたと気づいた松之助は、テレビのCMや番組の内容をこき下ろす漫談調の新作落語『テレビアラカルト」(別名『仮面ライダー 』『バカボン』)を創作し、落語家としての人気を得た。また、6代目松鶴が立ち上げた「セルシー落語会・繁昌亭」の出番組み(でばんくみ)を引き継ぎ、後身の育成に携わった。若い観客の発掘に積極的に取り組み、心斎橋筋2丁目劇場開場時は、ジーンズの上下を着て、帽子とサングラスで正体を隠し、落語を披露していた。 1996年6月から9ヵ月間、夜のニュース番組『ニュースステーション』(テレビ朝日系)の金曜日コメンテーターを担当し、同番組では中継レポーターにも挑んだ。高速道路のサービスエリアで停車している自動車を「45台」と紹介したところ、キャスターの久米宏が「暗いのにどうして45台とわかったのですか」と問うたので「ディレクターがそういえといったのです」と答えて久米を笑わせた。 2000年1月、4代目林家染丸とともに若手の勉強会『落語はやらせ隊』の顧問となる。松之助自身がなんばグランド花月ではじめて落語を演じたのは2007年6月28日だった。2008年8月6日、トリイホールにて自身の芸能生活60周年を記念する落語会『五世松鶴 弟子生活六十年記念の会 自称天然記念物認定』開催。 80歳を過ぎても40分を超える長ネタを演じ、映画監督をつとめ、ブログを開設して自ら積極的にメッセージを発信するなど、エネルギッシュに活動していた。2009年6月には、若手に交じって賞レース「S-1バトル」に挑戦している。2016年、90歳で初の著書を上梓した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}晩年は長老派教会である日本キリスト改革派甲子園教会の信徒となり、家族揃って教会に通っていた[要出典]。 2019年2月22日午前3時過ぎ、老衰のため、兵庫県西宮市の病院で死去。93歳没。
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