古新田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/16 07:01 UTC 版)
福田地域の中東部に位置し、南北に広い平地からなる。明治初期の児島郡古新田村(こしんでんそん)に相当する。近世における干拓平野であり、干拓時の旧堤防上を岡山県道274号福田老松線が通る。 この辺りは江戸中期まで前述の福田村沖の水島灘の奥まった入江状になっていた。中世後期から吉備の穴海西部の阿知の海が徐々に干拓されてい陸地化してくと、高梁川の流路も南へ伸び、河口も南下。福田村沖の入江は東高梁川の河口部に近くなり、沖積作用により徐々に干潟が広がるようになっていった。 正徳6年、児島西部5ヶ村(宇野津・呼松・広江・福田・浦田)が東高梁川の流砂のために磯漁が困難になったとして、児島郡林村の九郎兵衛が新開願を領主に提出した。享保2年から9年の間に備前岡山藩が干拓事業を行ったが、岡山藩の許可を得て直ちに築堤工事が開始されたが、翌年に上流18ヶ村より悪水吐故障を理由に反対が出て中断となっている。のちに村方より出訴し、同8年に水吐故障の村々へ熟談し解決、9年に完成し233町歩の新田が開発され、同10年に堤防の完成を江戸表に届け出ていることが『池田家履歴略記』に記されている。 新田は、児島郡福田沖新田村(ふくだおきしんでんそん)と名付けられ、福田村の枝村となり、幕末まで岡山領分となる。後に独立村となり、福田新田村(ふくだしんでんそん)と改称する。嘉永5年、当地の沖合を干拓し、955町歩の大規模新田が完成すると福田新田の名を譲り、福田古新田村(ふくだこしんでんそん)に再改称する。『吉備温故秘録』には、1317石2斗3升の石高が記録されている。 寛政12年、『撮要録』に用水不足のため、浦田村内に用地の築造を願い出たとある。文化年化の『岡山藩領手鑑』には、石高1335石余り、田95町9反余り、畑62町8反余り、樋37ヶ所、家数210軒、人口1126人、牛98頭、猟師2人、大工3軒、紺屋・桶屋各2軒、船6艘、四反帆1艘、三反帆3艘、二反帆1艘、漁船10艘、肥船5艘とある。 明治になる頃には古新田村(こしんでんそん)と称するようになっていた。明治11年、古新田・福田・浦田の3村が合併し、福田村を新設。同22年の村制を施行する同村内の大字として福田古新田と改称、当地の字松竹梅に役場が置かれた。同37年に福田・福田新田・呼松と合併し福田村(のち福田町)を新設、以前と同じ当地の字松竹梅に役場が置かれた。現在は役場・支所はなく大字は福田町古新田としている。 水島工業地帯の造成と水島中心部の市街化の影響で宅地化が急速に進行し、県道274号線や市道古城池線などを中心に幹線道路沿いも整備され、沿線はロードサイド店舗も多く立地しているが、一方農地も多く、米栽培なども行われている。字松竹梅付近から東塚にかけての地区は現在においても福田地域の中枢的な場所である。南端部には倉敷市営水島緑地福田公園やライフパーク倉敷など文化施設がある。
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