古墳・高地性集落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 09:28 UTC 版)
古墳の研究は、土器編年、年輪年代学、埋葬品などで進み、日本古代史の基本的な社会編成の原理や精神と年代は確定されつつある。古墳の編年は、外形、石棺、埋葬品、埴輪などで決まるが、絶対年代の確定には、年輪年代学を中心に、放射性炭素測定、土器編年などが重要な役割を果たした。 古墳・高地性集落出雲、吉備 1.卑弥呼の前の時代、古墳の発生期(弥生最晩期)前方後円墳の数十年前に、北陸から山陰にかけての豪族が出雲に集い、古墳を形成し、豪族の死を祭ったことが判明している。また、吉備でも同様であった。 2.これらの墓は甕棺からの連続した墳墓の形成を示し、さらに前方後円墳へと切れ目なくつながっていく。 3.倭国大乱の時代、武器などが多数出土する高地性集落が再度生まれ、環濠集落が前の時代から続き、全国的な戦乱が起きていたが、卑弥呼の時代になると、両者とも消える。畿内に限定(『高地性集落と倭国大乱 小野忠熈博士退官記念論集』)する場合、九州からの勢力に備えた可能性がある。全国的と言う記述もある。(白石太一郎) 出土品の九州から機内への移動 4.鉄の鏃、鉄の銭、鉄の素材や、鏡などの祭器が、弥生と古墳時代の境で、九州から機内に移動する。箸墓古墳(最初の前方後円墳) 5.卑弥呼の前後で、土器が地方差がほとんどなくなり、古墳も統一される。卑弥呼と同時代の箸墓古墳の一帯は、各地の土器が半分を占め、関東地方を含む各地から人々が集まってきた様子がうかがえる。 6.卑弥呼の時代、濃尾平野より東の東日本の前方後方墳と、西日本の前方後円墳が並行し、ふたつの政治圏があったようだが、やがて前方後円墳に統一された。ただし、後円墳も後方墳も、石室など、墳墓の形式が同じで、各地の石、宝物、土器が持ち寄られ、関東から九州の豪族の全国的な共同体が生まれたことが解る。 7.5世紀初め、馬の埴輪など、古墳が多少変化した事実から、江上波夫が騎馬民族征服説をとなえた。確かに、高句麗の影響が見られるが、古墳は前の時代から連続し(竪穴石室への横穴追加など)、征服説は成り立たない。関東には、完全な横穴形式の石室がある前方後円墳があり、この地方に、朝鮮半島から移住した豪族がいたことをうかがわせる。王の古墳の河内への移動 8.王の墳墓が、奈良から河内などに移動し、畿内の中ではあるが、王権が移動した可能性がある。(王朝の性格が古代的な祭祀から、広開土王との戦いを通じ、戦闘指揮に変わった。) 古墳は、教育委員会などが集団で調査し、研究者の名前を上げることは難しい。 都出比呂志、(古墳考古学から、卑弥呼の時代、全国的な国家体制が成立した。古墳体制論) 白石太一郎、(古墳考古学、古墳の主である豪族を悼む各地の豪族の結集) 江上波夫、(東洋考古学、騎馬民族征服説)
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