印文と解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 07:28 UTC 版)
印文は陰刻印章(文字が白く出る逆さ彫り)で、3行に分けて篆書で「漢〈改行〉 委奴〈改行〉 國王」と刻されている。印文の解釈は、文字と改行に着目して諸説ある。 文化庁編『新増補改訂版 国宝事典』(便利堂、1976年)「考古 金印」の項では「その訓みについてはなお定説をみない」としている。 『日本大百科全書』(小学館、1984年)「金印」の項では「1892年(明治25)三宅米吉により「漢(かん)の委(わ)(倭)の奴(な)の国王」と読まれ、奴を古代の儺県(なのあがた)、いまの那珂郡に比定されて以来この説が有力である」としている。 京大日本史辞典編纂会編『新編日本史辞典』(東京創元社、1990年)では「現状では金印について問題点が多く存在する。発見者については秀治なるもの、出土地については金印公園の地がよりふさわしいとされる。また委奴国の読み方にも諸説ある。(1) 伊都国説、(2) ワのナ国説が代表的なものであろう」としている。 この金印は出土状態(土層、関連遺物の有無など)が不明であるため、それが実際に1世紀に制作されて1世紀に志賀の島に持ってこられて1600年間志賀の島の地中から動かなかったかどうかの検証ができないものであり、あくまでも『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」の「倭奴國」「倭國」「光武賜以印綬」の記述にある印綬であると認識することが文化財としての価値を決定しているものである。よって、いずれの説も、この『後漢書』の記述を肯定的にしろ否定的にしろ念頭においてその文字やその国のさす範囲を検討するものである。 「委奴国」は「倭国」と同じで「やまとのくに」と訓じる説 - 亀井南冥、竹田定良。これは現在ではほとんど言及されない。 金印における「委奴」を『漢書』の「倭奴」の略字とし(委は倭の減筆)、「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じる説 - 落合直澄、三宅米吉など。三宅は「奴」は儺津(なのつ)・那珂川の「ナ」で、倭の「奴国」を現在の那珂川を中心とする福岡地方に比定した。教科書などでも一般的にはこの説が通説となっている。 「委奴」を「いと」と読み、「漢の委奴(いと)の国王」とする説 - 藤貞幹、上田秋成、青柳種信、福岡藩、久米雅雄、柳田康雄など。「委奴の国」を『三国志』「魏書東夷伝倭人の条」の伊都国に比定する。 「漢+民族(倭)+国名(奴)+官号」と「漢+国名(委奴)+官名」という概念はずっと議論されているものである。いわゆる大日本帝国時代に広められた万世一系単一民族観とも関連し、民族と国とどちらのほうがより大きなカテゴリなのかというイデオロギー論争を含むものである。江戸時代までは国といえば日本列島全体(天の下)というより各藩の範囲を意味したことを考えると、近代以前には国より民族のほうが大きなカテゴリとしてあったとみるほうが自然であるし、その逆に、天の下(日本列島全体)には民族という概念がなかったともいえる。ただし、中国史では、王朝と民族は密接に結び付いた概念である。とは言えイデオロギー論争はそうであっても、中国の古代の印章のなかに「民族名+国名」の構造をもつ印章実例を一つも見いだしえないことは、通説「委」の「奴国」説の克服すべき難点であるとされている。 なお、三宅は「委奴=伊都」国説を否定するにあたって、「委はワ行のゐ、伊はア行のい」であり、「両音の区別を明らかにしないならば言語はほとんど通じない」と述べている。これは、現代日本語では「委奴」と「伊都」はどちらも「いと」と発音するが、明治以前の日本語の発音では「委奴」と「伊都」は発音は同じではないので置き換えが可能であったはずがないというものである。
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