加藤清正との対立
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織田信長が毛利と長い戦をしていた頃、秀吉に仕えていた23歳の行長が淡路島で秀吉の味方を集めていた。すると、毛利の怪しい船舶200隻ほどが淡路島目指して海に現れたため、急いで行長が淡路島の船を率いて「信長様と秀吉様の海に侵入するな!」と追い払ったところ、信長が「あの凄い者は何やつじゃ?」と尋ね、蜂須賀正勝が「秀吉殿の配下の小西でございます。」と言上したので、信長が行長のことを大いに褒めたという書状が当世まで残っている。なお、その頃の清正は、秀吉の下での年貢の経理係であり、信長の知るところではなかった。 肥後半国に入った後は、領地が清正と互いに隣接していたため、常に境界線をめぐって争ったといわれている。 清正が熱心な日蓮宗信者であったのに対し、行長が熱心なキリシタンであったことも対立の一因を成したという。例えば天正17年(1589年)の天草五人衆の反乱の際、キリシタンの多い天草衆に対して行長は事態を穏便に済ませようとしたが、強力な天草水軍を行長の手にさせまいとする清正の強引な出兵・介入が原因で武力征伐に踏み切らざるを得なくなったという経緯がある。 清正からは、清正自身が百姓の出であるにもかかわらず、ことあるごとに「薬問屋の小倅」と蔑まれたという。その反発として行長は、朝鮮出兵のとき、軍旗として当時の薬袋である紙の袋に朱の丸をつけたものを使用したという。 文禄の役の際の京城攻めでは、どちらが先に一番乗りするかを争い、行長が一日の差で清正を出し抜いたという。 李氏朝鮮に配下の要時羅(家臣・梯七太夫のこと)を派遣して清正軍の上陸時期を密告し、清正を討ち取るよう働きかけた。李氏朝鮮は李舜臣に攻撃を命じたが、李は罠だと思い攻撃を躊躇ったために陰謀は失敗した(柳成龍『懲毖録』)。なお、文永の役で清正は2番隊であったため、1番隊であった行長やこれを救援した3番隊とは比較にならないほど自軍の被害が少なかった。そのため全体の状況が分からず、明への強行なる攻撃を主張し続けたものと思われる。そして、こうした対応が講和の邪魔になり、このような陰謀につながったものと考えられる。なお、この戦いでの行長の被害は非常に大きかったが、これが後の関ヶ原の戦いで軍勢を2,900名程度しか派遣できなかった原因にもなっている。 このように、文禄・慶長の役を通じて、秀吉の願望をそのまま叶えようとする清正と、明まで遠征すれば日本軍は孤立し帰国できなくなるという現実を知る行長とで、作戦や講和の方針をめぐって対立した。実際、京城入りの際、朝鮮王を捕獲して行長が交渉で終戦しようとするが、清正との不毛な話し合いで京城入りが遅れたため、朝鮮王を取り逃がし、停戦交渉の糸口を逃している。一方、失態にもかかわらず、清正は朝鮮側が自ら焼け落とした京城を見て大いに喜び、秀吉に大量の書簡を送りつけている。これらが積み重なって、後に武断派と対立する一因を成した。 明に講和の文書を出した際「大将摂津州前司小西秘書少監豊臣行長」と書いている。詐称説もあるが、現存する五山版『春秋経伝集解』荘公第三の巻に内題の下に「豊臣行長」の印が押されたものが発見されており、豊臣姓を下賜されていた可能性がある。 清正は、行長亡き後、領内において小西家に対する焚書を行うことによって、藩主としての正当性を高めようとした。清正は、行長を敬称で呼ぶことを禁じたという話もある。
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