加藤清正の漢城帰還とは? わかりやすく解説

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加藤清正の漢城帰還

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「加藤清正の漢城帰還」の解説

その一方9月中旬二番隊加藤清正安辺まで、鍋島直茂咸興まで戻り吉州から安辺までの間の城々に兵を置き、清正鍋島直茂相良頼房らは今後咸鏡道統治方針協議していた。清正らはこの時点で他の方面軍作戦順調に進んでいないことを知ったようである。特に明への侵攻路である平安道任され小西行長対する不満は強く9月20日織田信雄木下吉継に対して宛てられ書状でも憤り表明している。それまで隣国でもあり、対立避けてきた加藤清正小西行長確執萌芽みられる10月になると、吉州などで日本軍対す反乱起き始めたが、他の方面での戦況の悪化降り出したために討伐に向かうことが困難な情勢であった支配領域縮小しつつあったものの、清正咸鏡道平定自信見せていたが、平壌での一番隊敗走の報を聞いた漢城奉行衆であった石田三成・大谷吉継増田長盛二番隊咸鏡道からの撤退厳命やむなく加藤清正らは漢城への撤退受け入れ2月29日朝鮮王子2名(臨海君順和君)を連れた加藤清正安辺から漢城帰還し鍋島直茂咸興から漢城帰還した清正王子日本連行して秀吉謁見させる意図有していたが、日本秀吉およびその周辺では講和交渉進展とともに日本には連行せずに朝鮮側返す方針固まり4月下旬には清正に対して尚州防衛専念させるために王子伊達政宗引き渡すことを命じたであった

※この「加藤清正の漢城帰還」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「加藤清正の漢城帰還」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。

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