加藤清正との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/27 11:00 UTC 版)
豊臣秀吉朱印状の分析により、天正16年(1588年)に加藤清正が肥後国北半国の大名に任ぜられて入国した時に妻子があったことが判明している。この妻が『山崎家譜』に記載されている山崎片家の女と推量されている。また、片家の子の百助が清正の養子になって重縁を結んでいるなど、両家に密接な関係があることは、複数の清正書状や『続撰清正記』などの古文献にも合致している。山崎氏の産んだ、清正嫡男と想定される虎熊の名は、文禄の役の際に「虎熊に2千の兵をつけて送るように」などの、朝鮮からの清正書状6通に現われているが、その中には虎熊の母が煩っていることを知った清正が動揺しているものもある。なお、虎熊の母子ともに文禄の役以後の消息が不明なことから、この頃に前後して死去したものと推測される。
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