加藤家の時代とは? わかりやすく解説

加藤家の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:13 UTC 版)

会津藩」の記事における「加藤家の時代」の解説

寛永4年1627年)、忠知と入れ替わり伊予松山から加藤嘉明が倍の加増40万石入部した。嘉明は豊臣秀吉の下で賤ヶ岳の七本槍1人数えられ朝鮮出兵では水軍の将として活躍し関ヶ原の戦いでは本戦東軍の将として武功立てた勇将である。この抜擢縁戚蒲生家に代わる奥羽鎮守信頼に足る人物誰か迷っていた大御所秀忠最初藤堂高虎選ぼうとしたが、高虎辞退して嘉明を推挙したため、秀忠は嘉明を会津加増して入れたという。ただし所領が倍増されたとはいえ、既に嘉明は65歳高齢の上伊予松山藩政基礎固めていたことに加えて温暖な瀬戸内から寒冷会津盆地への移封うれしいことではなかったといわれる。 嘉明は積極的に内の整備行ない白河街道整備蒲生氏郷名づけ日野町火玉「火」連想させることから甲賀町福永村改名するが、道半ば寛永8年1631年)に死去した第2代藩主嫡子明成が継ぐ。だが寛永13年1636年)の江戸城手伝い普請における堀の開削費用蒲生秀行時代地震で傾いていたままだった自らの居城若松城天守5層改め工事出丸工事など多額出費が相次ぎ加藤家財政逼迫した。このため加藤家領民にかける年貢厳しく取り立て寛永19年1642年)から翌年にかけて飢饉が藩を襲った際、農民2000人が土地捨てて他藩に逃げ騒動にまで発展した。また明成は、その激しい気性から嘉明の時代からの家老である堀主水との対立引き起こし寛永16年1639年4月には堀が一族300余人引き連れて若松城向けて発砲し焼き芦野原の関所突破して出奔し激怒した明成血眼になって主水を追うという御家騒動会津騒動)にまで発展した主水幕府嘆願してまで高野山逃げ込んだ明成主水身柄引き渡し求め寛永18年1641年進退窮した主水高野山下りて3月江戸に赴き、城の無断改築関所勝手な新設など7か条を挙げて明成幕府訴えでた。しかし将軍家光自らの裁断により、主に非があるのは認めたが、それを諌めずあるいは自らの生命をもって諫死せず、主家に叛いて訴え出るのは義に外れており、非は主水にあるとして、主水身柄明成引き渡され激し拷問が行なわれて主水殺害された。 寛永20年1643年5月明成幕府会津40万石返上し幕府はこれを受けて加藤家から所領没収し改易としたが、明成嫡子明友石見吉永藩1万石を与えて家の存続許したこの際加藤家支藩二本松藩改易されており、幕府会津騒動悪政原因改易したとされている。

※この「加藤家の時代」の解説は、「会津藩」の解説の一部です。
「加藤家の時代」を含む「会津藩」の記事については、「会津藩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「加藤家の時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「加藤家の時代」の関連用語

加藤家の時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



加藤家の時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの会津藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS