堀主水との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 01:48 UTC 版)
堀主水は嘉明時代の功臣で、本姓は「多賀井」であるが、大坂の陣では敵と組みあい、堀に落ちても相手の首を取ったということから「堀」と名乗ることを嘉明に許されていた。先代からの実績もあり、戦国時代の気骨があった堀は明成の素行に対して何度も諫言したが、堀と明成は次第に不仲になっていく。そんなとき、堀の家臣と明成の家臣が喧嘩をするという事件が起こる。一方は筆頭家老の家来、一方は藩主の直臣であったことから奉行の権限で裁けることではなく、明成による裁断が仰がれた。すると明成は堀の家来に非があるとして処罰し、さらに堀も連座として蟄居を命じた。この処置に怒った堀は、蟄居を破って明成のもとに現れ、再度の裁断と処罰の無効を訴えた。これに対して明成は怒り家老職を罷免する。
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