堀主水の出奔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 01:48 UTC 版)
寛永16年(1639年)4月16日、堀は実弟の多賀井又八郎ら一族郎党を率いて、白昼堂々と若松城から立ち去った。しかもこのとき、若松城に向かって鉄砲を撃ち、関所を押し破るという暴挙にも出ている。堀は鎌倉に立ち寄ったあと高野山に逃れた。高野山は堀主水を匿いきれず、主水は紀州藩を頼るが、明成は紀州藩にも引き渡しを要求する。堀主水は紀州にも居られなくなり、江戸へ出て幕府へ「おのれつみなきよしを申す」が家臣でありながら関所を破り、城に鉄砲を撃ちかけたことは「家臣の礼を失ひ国家の法をみだる。罪ゆるさるべからず」と明成に引き渡され、明成によって弟二人と共に処刑された。
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