創業からオートバイ製造まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/10 09:48 UTC 版)
「ドゥカティ」の記事における「創業からオートバイ製造まで」の解説
ドゥカーティの一族は古代ローマ帝国まで遡る由緒あるイタリアの名家であり、ボローニャを拠点としルネサンス期から医学や技術の面で優れた人材を輩出した。アントニオ・カヴァリエーリ・ドゥカーティは1880年頃から水力学と鉄道関係の発明家、技術家として工場を経営していた。水力は発電機と密接な関わりがあり、ここから電機関連事業へと参入した。 アントニオの息子アドリアーノ・カヴァリエーリ・ドゥカーティ(Adriano Cavalieli Ducati )は電気に深い関心を持ち、グリエルモ・マルコーニの影響を受けて1924年にはアメリカ合衆国との交信に成功、無線通信や放送事業に大きな将来性を見い出し、1925年に兄弟のブルーノ・ドゥカーティ(Bruno Ducati )、マルチェッロ・ドゥカーティ(Maecello Ducati )とともに「ソチェタ・シェンティーフィカ・ラディオ・ドゥカーティ」(Società Scientifica Radio Ducati )を設立、1926年には「ソチェタ・シェンティーフィカ・ラディオ・ブレヴェッティ・ドゥカーティ」(Società Scientifica Radio Brevetti Ducati、SSRBD)と改名した。巨大な工場をボローニャとミラノに建設、高品質な電子部品の大量生産に成功、1939年には従業員7000人の大企業へと成長した。赤いドゥカーティのマークをつけたコンデンサーは時折古いイタリア電気製品の中に発見できる。この当時、アイントホーフェンの小さな電球製造工場だったフィリップスから招かれて技術協力を約束、その後ドゥカーティの後押しでこの工場は世界最大の電気メーカーへの道を歩むことになった。 当初はラジオや無線の部品製造会社であったが、当時イタリアはベニート・ムッソリーニの政策により急速に工業化を進めており、また新しい技術に意欲的だったドゥカーティ兄弟は1935年にインターホン、1939年に電[蓄音機とラジオ、1940年に電気シェーバー、1941年に16mmフィルム映写機、1942年には電動計算機、と次々に新製品を発売した。この他にもカール・ツァイスのパテントでレンズ、眼鏡、双眼鏡、オーディオアンプ、自転車と広い範囲の製品を販売した。 しかし第二次世界大戦により大きな被害を受け、産業復興公社(IRI)の支援を受けることとなった。 ちょうどその頃トリノにあったシアタは原動機付き自転車クッチョロ(Cucciolo、子犬の意)を発売してベストセラーとなっており、エンジンのOEM生産先を探していた。その事情を産業復興公社が知ってドゥカティを紹介し、1946年ドゥカティでエンジンを生産することになる。ドゥカティは1947年には販売権を獲得し、改良しつつ総計25万台以上を販売した。当時はピアジオのベスパとイノチェンティのランブレッタがライバルで、優秀さをアピールするためレースに出場するようになった。 産業復興公社の元でドゥカティは「マイクロカメラ・ドゥカーティ」の製造を手掛けた。発売時期に関しては諸説あり、早い説では『メイド・イン・イタリー』など1938年とする記述もある。『ドゥカーティ・ストーリー』中には1940年頃ベルギー支社がブリュッセルの見本市に出した展示の写真の中にカメラらしきものが写っているというが試作品の可能性もある。マラヴォルティは『イタリアカメラ』中で1946年としている。ジェームズ・マッケオンの本は1950年頃とする。ソーニョとシンプレックスが知られ、どちらも一般的なカメラと逆で「カメラを構えて左手側」が巻き上げノブである。しかし過去にファシスト党政権に協力したとして市場でボイコットを受け1950年代初めに写真部門を閉鎖、結果今日では珍品としてマニアに人気があり高価に取引されている。 会社が発展したため、1953年創立からの分野である通信機器部門とオートバイ部門の2つに会社が分割された。なお通信機器部門もドゥカティ・エネルジアとして今日も存在するが、現在のオートバイメーカーとしてのドゥカティとの資本関係はなくなっている。
※この「創業からオートバイ製造まで」の解説は、「ドゥカティ」の解説の一部です。
「創業からオートバイ製造まで」を含む「ドゥカティ」の記事については、「ドゥカティ」の概要を参照ください。
- 創業からオートバイ製造までのページへのリンク