制作・刊行の経緯
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ランボーは『地獄の季節』の原稿の末尾に「1873年4月―8月」と記しており、これが『地獄の季節』の制作時期とされている。ヴェルレーヌとの関係が終焉に向かい、ブリュッセル事件に至った時期に相当する。 ランボーは1872年7月からヴェルレーヌとともにブリュッセル、次いでロンドンを放浪した。それぞれの詩作において実りの多い経験であったが(ヴェルレーヌは1874年に『言葉なき恋歌』を発表)、幾度となく仲違いと和解を繰り返し、数々の修羅場を潜り抜けた挙句、1873年4月11日にランボーは故郷のロッシュ(フランス語版)(シャルルヴィル)に戻った。長い放浪生活で消耗しきっていたうえに精神的な危機に陥っていた。シャルルヴィル高等中学校の同窓生で文学活動でも生活面でもランボーを支援し、彼に関する重要な著書を残すことになったエルネスト・ドラエー(フランス語版)に宛てた翌1873年5月付の手紙(Lettre de Rimbaud à Ernest Delahaye)に、「散文によるささやかな物語」を書いている、これらをまとめて『異端の書』または『黒人の書』として発表するつもりであると書いている。さらに(いったん封をした後に開封して近況を多少書き加えた後)、この詩集について「私の運命はこの本にかかっている」と書き添えている。4月の帰郷時に書き始め、『異端の書』または『黒人の書』として構想されたこの詩集が『地獄の季節』である。実際、『地獄の季節』所収の「悪い血」において異教徒や黒人は白人・キリスト教文明と対置されている。 1873年5月25日、孤独と病に苦しむヴェルレーヌの求めに応じて再びベルギー(リエージュ、アントワープ)を経てロンドンに向かった。だが、再びいさかいが起こり、ヴェルレーヌは一人ブリュッセルに発った。7月8日、ランボーは彼を追って同地に着いたが、1873年7月10日、ヴェルレーヌが酔った勢いでランボーに向かって発砲し、ランボーの左手首に傷を負わせる事件(ブリュッセル事件)が起こった。ランボーは弾丸摘出のために入院し、ヴェルレーヌは2年の禁錮刑を受けた。7月20日に退院して故郷ロッシュに戻ったランボーは『地獄の季節』の執筆に専念した。10月、自費出版のためにベルギーの印刷同盟(M・J・ポート社)に託した原稿が印刷・製本された。だが、出版費用の残金未払いのため、知人宛に送られた数冊の見本を除き、事実上、出版されずに保管されることになった。 ランボーの名が世に知られることになったのは、1884年刊行のヴェルレーヌの『呪われた詩人たち(フランス語版)』第1版によってである。ランボー、トリスタン・コルビエール、ステファヌ・マラルメの3人の詩人を紹介する本書の「アルチュール・ランボー」の章には「酔いどれ船(フランス語版)」、「母音」のほか主に1871年に書かれた前期韻文詩が数編掲載され、若い象徴派詩人の関心を呼んだ。このときランボーは貿易商として英国領アデン(アデン湾に面する現イエメン共和国の港湾都市)とアビシニア(現エチオピア)のハラールを行き来しながら、同地を探検していた。 さらに、1886年に創刊された象徴主義の文芸誌『ラ・ヴォーグ』が同年5月から6月にかけて詩集『イリュミナシオン』の一部を掲載し、同年末にラ・ヴォーグ出版社が『イリュミナシオン』初版200部を刊行した。『地獄の季節』は同じ1886年の7月から10月にかけて同じ『ラ・ヴォーグ』誌に掲載され、初めて一般の目に触れることになった。この後、1895年刊行の『全詩集』(通称「ヴァニエ版」、ポール・ヴェルレーヌによる序文)、1912年にメルキュール・ド・フランス社から刊行された『作品 ― 韻文詩・散文詩』(パテルヌ・ベリション(フランス語版)による注解、通称「ベリション版」、ポール・クローデルによる序文)に収められることになった。さらに、1946年にはガリマール出版社のプレイヤード叢書として刊行された。注解はアンドレ・ロラン・ド・ルネヴィル(フランス語版)、ジュール・ムーケ(フランス語版)による。プレイヤード版は1972年にアントワーヌ・アダム(フランス語版)の注解による新版が刊行された。こうした経緯に応じて邦訳も次々と改訂版・新版が出されることになった(以下参照)。
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