利用者減少と労使紛争による疲弊
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「岩手県交通」の記事における「利用者減少と労使紛争による疲弊」の解説
1960年代に入ると、過疎化とモータリゼーションの進行により、バス利用者数は減少傾向となっていった。事業者側ではこれに対応して合理化と人員削減による対策を進めようとしたが、これは従業員側の反発を招いた。さらに賃金遅配という事態になったことから、労使関係は悪化してゆくことになる。 1965年、中央バスでは盛岡市内路線で県内初となるワンマンバス運行を開始した。これに反発した労働組合が、4月の春季労使交渉(春闘)に続いて5月にもストライキを実行。7月には夏の賞与をめぐって無期限ストライキに突入し、収束するまでに50日を要した。盛岡市の商店街ではストライキの中止を申し入れたが解決できず、「バススト対策協議会」として200台の自家用車を使用して全商店街を無料で巡回するサービスを開始した。地元の中央バスに対する不信感は強まり、飲食店の一部は店頭に「中央バス社員お断り」と張り紙を出すほどであった。発車直前の「ポカ休」と呼ばれる無断欠勤、それに伴う間引き運行も常態化しており、早池峰山登山バスの最終便を運休させたことで、登山客が下山できなくなってしまうケースもあった。 翌1966年には県南バスが一関地区の路線でワンマン化を開始したが、労働組合では事前協議なしの運行であるとしてストライキに突入した。同年9月には水沢地区でワンマン化を行なったことで労働組合側は闘争体制を強めることになり、指名ストを通告したが、これに対する会社側はロックアウトを宣言した上に、調整に入ろうとした地方労働委員会(地労委)の斡旋を拒否した。12月に地労委が調停に入ったことで収束したが、この間はストライキや間引き運行が多発した。闘争の拠点となった江刺市では市議会で「バスの正常運行を求める決議」まで行われ、地域の農業協同組合などでは自衛手段としてバスを自ら購入した。 ストライキや間引き運行が続き、沿線の住民からのバス事業者に対する印象は悪化することになった。沿線住民はバスがなくても通勤通学できる手段を用意し、沿線企業では自家用バスによる送迎を行うなど自衛手段に努めた。この結果、バス利用者の更なる減少を招くことになる。 1968年、中央バスは経営再建のため、業績の良い貸切部門を分社化して岩手観光バスを設立したが、これは東北地方では初の貸切専業バス事業者となった。1970年には国際興業の傘下に入り、国際興業は7割の株式を引き受けた上で負債の肩代わりを行ったため中央バスは倒産を免れた。翌年には同じ資本系列にあった花巻電鉄と合併した。その後は比較的良好な経営状態で推移した が、余裕のある状態ではなかった。 また、花巻バスでは1969年に貸切バス事業を花巻観光バスに分社化した上、1970年に県北バスからの財政支援を受けることで経営建て直しを図った。しかし、沿線に観光資源がないこともあって経営は好転せず、賃金未払いによるストライキや間引き運行が日常化する事態となった。1974年には乗務員の無断欠勤が続出するため欠便申請まで提出する事態になり、公共交通機関としての信用は失墜した。後述するように1974年には会社更生法の適用を申請することになるが、その時点で花巻バスの累積赤字は1億3,600万円、未払い賃金の合計金額は8,700万円に上っていた。 なお、この時期に県内の同業他社の一つである県北バスでは、観光路線が多かったこともあり比較的経営は順調で、労使関係も良好であった。ワンマン運転についても着手こそ1974年と県内他社と比較すると遅い時期ではあったが、その後2年で8割以上の路線がワンマン化されていた。
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