判決・再審
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1950年(昭和25年)3月23日、熊本地裁八代支部は被告人・免田栄に死刑判決を言い渡した。免田は控訴するが1951年(昭和26年)3月19日に福岡高裁は免田の控訴を棄却する判決を言い渡した。さらに免田は上告したが、同年12月25日に最高裁から上告棄却の判決を言い渡され、1952年(昭和27年)1月5日に死刑が確定した。 1968年(昭和43年)、国会に死刑囚に対する再審特例法案が提出されたが、翌1969年(昭和44年)に廃案。その代わり、当時の法務大臣である西郷吉之助が、GHQ占領下で起訴された死刑確定事件6件7名に対して特別恩赦の検討を約束。免田も特別恩赦が検討されたが実現しなかった。 死刑囚となった免田は再審請求を行うが、第5次請求まですべて棄却された。このうち、1954年(昭和29年)5月18日に熊本地裁八代支部へ提起した第3次再審請求では、1956年(昭和31年)8月10日に同地裁支部(西辻孝吉裁判長)が再審開始を決定したが、検察が即時抗告したところ、福岡高裁は1959年(昭和34年)4月15日に再審開始の取り消しを決定し、免田の特別抗告も同年12月6日に最高裁で棄却された。 1972年(昭和47年)に免田は熊本地裁八代支部に第6次再審請求したが、1976年(昭和51年)4月30日に同地裁支部より請求棄却決定が出される。しかし、1979年(昭和54年)9月27日に福岡高裁が再審開始を決定。検察は最高裁に特別抗告したが、1980年(昭和55年)12月11日に棄却され、再審開始が確定した。 1981年(昭和56年)5月16日から始まった再審では、再審ではアリバイを証明する明確な証拠が提示されたこと、検察側の主張する逃走経路に不自然な点が見受けられたことなどが指摘された。1982年(昭和57年)11月5日に検察は免田に2度目の死刑求刑を行ったが、1983年(昭和58年)7月15日に熊本地裁八代支部は免田に無罪判決を言い渡した。同地裁支部は事件当夜の免田のアリバイを認め、(有罪の根拠となった)自白の信用性を否定した。この判決は死刑囚に対しては初となる再審無罪判決で、事件発生から34年6か月後のことだった。免田は即日釈放され、同月28日に検察が控訴を断念したことで無罪が確定。刑事補償法に基づき、死刑確定判決から31年7か月の拘禁日数12,599日に対して免田に9,071万2,800円の補償金が支払われた。なおそれまでに、警察・検察は、いずれも免田が真犯人だとして本事件の再捜査を行わなかったため、真犯人は検挙されず、本事件は公訴時効が完成し、未解決事件となっている。
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