初期東京期/グラフィック・デザイナー時代(1987-1994)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 22:21 UTC 版)
「宇川直宏」の記事における「初期東京期/グラフィック・デザイナー時代(1987-1994)」の解説
1988年よりDTP第一世代のグラフィックデザイナーとしてアンダーグラウンドで頭角を現し始める(秋田昌美著『SCUM CULTURE』や初代『映画秘宝』(洋泉社)のカバー<創刊後4年間は全て宇川デザイン>は当時の代表作)。この時期よりメルツバウの秋田昌美との交流が始まり、後に秋田の書籍を数冊デザインする。 同年BOREDOMSのEYE(山塚アイ)と出会い意気投合。直後、EYEの誘いを受けBOREDOMSのVJとして活動を開始。 1990年には、小学校時代からの友人、佐野和樹から突然手渡された100万円で、自身のCDレーベル『MOM’n'DAD PRODUCTIONS』を発足。『HANATARASH(ハナタラシ)』(BOREDOMS・EYEのノイズユニット)のLIVEシリーズをリリース。それらCDの余ったメディアに当時未踏の領域だったモーグ音楽を勝手に数十曲ブート収録→『Space Age Bachelor Pad Music』。 同年、DJ開始。当時『rockin'on』(ロッキング・オン)のデザイナーであった大類信が経営する乃木坂のCLUB"THE DEEP"で月1回土曜日のレギュラーを持つ。 1991年執筆活動を開始し、『STUDIO VOICE』(INFASパブリケーションズ)「UKAWA’S Californian Shock Hunter」、『SWITCH』(スイッチ・パブリッシング)「Scandinavian childs Works(石原豪人との連載)」、『BARFOUT!』(TCRC)「現実を制裁せよ!」、『ele-king』(当時エレ・メンツ、現在は日販アイ・ピー・エス)「西海岸★積み木くずし」などの連載を抱える。 1992年頃から、思想誌、文芸誌でも執筆を始める。『コフィンジョー』と『東映まんがまつり・飛び出す人造人間キカイダー』と『ロバートエイブル』と『ビンスコリンズ』を同時空で語った『ユリイカ/悪趣味大全』(青土社)へ寄稿したほか、オウム真理教事件をサブカルチャーの側から斬り込んだ椹木野衣編集の共著『ジ・オウム』に執筆参加。同年、マジカルパワーマコの70年代の音源を、アーティスト本人の納屋からオープンリールテープで75本程発掘。自身のレーベルMOM'n'DAD PRODUCTIONSから『HARMONIUM#1〜#5』として連続リリース。プロデュース、デザイン、リリース全てを自ら行う。また、グラフィックデザイン代表作は80年代のハードパンクバンド奇形児のリイシューCDジャケットを手がける。この時期より、灰野敬二と親交を深め『天乃川』というタイトルの70年代のエレクトロニクス音源をMOM'n'DAD PRODUCTIONSからリリース。 1993年、新宿の特殊レコードショップ「ロスアプソン(LOS APSON?)」の設立メンバーとして内装やグラフィックデザインに携わる。トラッシュ/カルトビデオレーベルである米SomethingWired社からロスアプソンへのディストリビューションを担当する。同年、表参道のクラブ"MANIAC LOVE"のチームが新宿御苑にオープンさせたクラブAutomaticsの中のラウンジAtomageでレジデントDJとなり、以降渡米までの1年間、毎週末PLAYする。またAtomageはボンデージショップAZZLOが経営しており、クラブ内にギャラリーが組み込まれていたことから、宇川も何度かキュレーションを担当し、タイの祭りベジタリアン・フェスティバルなどを企画した。 1994年、初来日中のキャロライナーレインボーのメンバー達と交流し、当時迷っていた渡米を決意。その時期、個人活動とは別に平行で関わっていた3Dアプリケーション『Infini-D』日本支社からの赴任依頼を受けており、奇しくも宇川は渡米を考慮していた最中であった。アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに移住。
※この「初期東京期/グラフィック・デザイナー時代(1987-1994)」の解説は、「宇川直宏」の解説の一部です。
「初期東京期/グラフィック・デザイナー時代(1987-1994)」を含む「宇川直宏」の記事については、「宇川直宏」の概要を参照ください。
- 初期東京期/グラフィック・デザイナー時代のページへのリンク