初期書院造の中の寝殿造の遺制
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「中世の寝殿造」の記事における「初期書院造の中の寝殿造の遺制」の解説
書院造の初期の遺構で、主殿造と云われることもある園城寺の光浄院客殿、勧学院客殿には短くはなってはいるが中門廊がある。そしてその面には二つの妻戸とその間に横連子窓。北側に目を移すと蔀で、その内側が明障子になっている。この作りは寝殿造以来のものである。平安時代と少し違うところは中門廊の側から二つ目の妻戸の位置で、短い中門廊から内側にずれて、そこから入ると中は公卿座である。その最も上位の入り口の上は唐破風になっている。この状態への寝殿造の段階的な変化は鎌倉時代の絵巻にも見られる。 上座の間の北には、ここでは納戸構と呼ばれているが帳台構がある。昭和25年(1950)に島田武彦が寝殿造の固定された障子帳を装飾化したものが書院造の帳台構であるという説を発表しており、現在ではそれが定説となっている。 書院造というと誰もが思い浮かべるのが床の間と違い棚、そして付書院だが、違い棚は大陸渡来の厨子が寝殿造の時代に厨子棚、二階棚、三階棚などに変化し、それが中世に唐物の陶磁器などを展示などに使われ、ついに作り付けになったものである。床の間の謂われは若干複雑だが、その起源のひとつである押し板は、中世の会所などにおいて中国伝来の掛け軸を三幅、四幅と懸けて展示する処の前に三具足などを置くスペースである(画像a93)。それらが桃山時代に、接見の間を荘厳にする装置として様式化される。付書院(画像a91)に書院の名が付いたのは先述の通り後からである。そしてそれらも唐物の展示スペースからそれ自体が金碧濃彩な座敷飾りとなった。 それが江戸時代中期に武士階級全般から商家にまで広まるに及んで幕府は度重なる倹約令を出す。そうして豪華絢爛な室内装飾が数寄屋風の流行とも相まってシンプルな形に変化したものが、現在一般にイメージされる書院造である。
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