出自に関する伝承
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近年の研究で、元禄9年(1696年)に備前岡山藩に仕えた宮本小兵衛が書き上げた資料『宮本小兵衛先祖附』が岡山で発見された。内容は三木之助の出自や、先祖から三木之助の本多忠刻に殉死以後の歴代を詳細に記録した先祖附であり、中には武蔵の養子になった経緯も記されている。これによると三木之助の出自は伊勢の中川氏であり、姫路の書写山圓教寺の墓誌記載の「(三木之助は)伊勢ノ生レデ武蔵ノ養子」とも一致し、水野勝成家中の中川志摩之助の3男であることが証明された。 これ以前には以下の伝承も流布されていた。 武州伝来記 造酒之助は西ノ宮の馬追なり。武州、或時、尼ヶ崎街道を乗掛け馬にて通らる。西ノ宮の駅にて、十四五の童、馬の口取りすすみ行く。武州、馬上よりつくづくと彼の童がつら魂を見て、其方、われ養ひて子にしてよき主へ出だすべし、養はれよ、と有りければ、彼の童申し様、仰せは忝なく候へども、われ、老の親をもてり、某此の如く馬子をして養へり、御身の養子になりては両親難儀に及ぶべし、御免あれと申す。武州、聞き玉ひ、先づ、其方が家につれ行けとて、彼の家に至り、両親に右の旨趣を申し聞け、当分の難儀これ無き様に金子をあたへ、処の者にも懇ろに頼み置き、彼の童を伴ひ、暫く育ひ置て、播州姫路の城主、本多中務太輔忠刻卿へ差し出ださる。中書殿、御心に叶ひ、段々立身せり。しかれども、子細あって暇申し請、江戸へ下る。中書殿、不幸にして早世し玉ふ。武州、其頃大坂に居て、此の事を聞き、近日造酒之助来るべし、生涯の別れ為るべし、馳走すべしと也。かくて、暫くあつて造酒之助入来す。武州、悦びに堪へず、甚だ饗し玉ふ。造酒之助、盃を所望して戴き、これより直に姫路へ相越し候通り申し達す。武州、尤の覚悟の由、あいさつ有り。造酒之助、姫路へ至り、追い腹せしといへり。惜しむべし、惜しむべし。 作州新免系図 当世の美少年二刀剣術をよくす。宮本武蔵玄信の養子となり播州姫路城主本多美濃守世子中務太夫忠刻に仕える、七百石側小姓、宮本造酒之助と改める、本多忠刻寛永三年丙寅五月七日卒三十一歳、造酒之助即日殉死、 新免家は関ヶ原の戦いで西軍宇喜多秀家軍に属して敗れ、一族家臣とも九州へ落ち、黒田家に仕え明治維新まで続いている。領地だった三奈木村には今も「伊賀様」とよばれる新免伊賀守を祭る祠や供養塔が、新免宗家と家臣団の祭司の中心として大切に守られており、この系統の由緒は正しいが、しかし筑前黒田藩三奈木村に残る永禄年中(1558年)から明和6年(1769年)まで200年余の歴代事象を記録した「筑前新免系譜」(三奈木村史収録)には三木之助らしい人物の記録は一切無い。
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出自に関する伝承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/16 16:13 UTC 版)
青森県青森市浪岡町には、藤原秀衡の六男藤原頼衡が次兄の藤原泰衡と対立した後この地に逃れ、浪岡右京大夫と名乗ってこの地を支配、浪岡氏の祖となったという伝承がある。秀種は頼衡の曾孫、秀衡の玄孫と言われ、奥州藤原氏の末裔とされる。
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