出版関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 02:58 UTC 版)
1979年前後に『週刊セブンティーン』で連載されていた武田鉄矢の悩み相談コーナーのライターがさくまだったこともあり、放送開始直後だったドラマ『3年B組金八先生』の特集も雑誌内で何度か任されていた。その時に後のたのきんトリオとなる田原俊彦、近藤真彦、野村義男をクローズアップしていた。その際、ドラマ内で同じく人気のあった鶴見辰吾を事務所が違うという理由で特集から外してしまったことを長らく後悔していたという。 『月刊OUT』で担当していた読者コーナーの一つ「私立さくま学園」は書籍化もされた。また、連載1周年の際はさくまの知り合いの著名人がコーナーの形態に基づいたお祝いコメントを寄せたが、さくま本人が1号早く1周年と銘打っていたことが後に発覚した。 『マンガハウス』を創刊したきっかけは、手塚治虫が新人漫画家発掘のため発行していた雑誌『COM』が廃刊された時、同様のコンセプトの雑誌を創る事を決意したため。さくまは編集部まで最新号を買いに行くほどCOMを愛読していた。 『ジャンプ放送局』初期では、あまり定着しなかったもののロリコンキャラとしていじられていた。単行本2巻と6巻の巻末マンガのいたずら書きの記述で、「近所から五歳以下の女の子が姿を消した」「松本典子のファン。あいかわらずロリコン〜。」と書かれている。また、8巻の「ミスJBSコンテスト」の扉絵はコーナーに参加したばかりの横山智佐に他のメンバーから服がプレゼントされる設定になっているが、横山がイラストで着ている「さくちゃんより」の札がついた服は、幼稚園のスモックだった。 ジャンプでは、放送局のほかにマンガの描き方を教える企画ページ「ジャンプまんがスクール」「ジャンプまんが原作ゼミナール」の構成を担当。ほとんどの仕事はさくまあきら名義で行っているが、この連載では「森尾一三」のペンネームを用いた。 イラスト投稿雑誌『チョコバナナ』では新人漫画家やイラストレーターの発掘・育成・プロデュースに力を注ぎ、さくまが制作するゲーム内のイラスト担当に雑誌の投稿者を起用することもあった。 脳内出血で入院した際、入院1週間で手足が動くようになり、1か月後の時点では病室にハガキを持ち込んでスタッフらと制作を続けていたという。その時の様子は『チョコバナナ』2巻に記されている。最後の方のコーナー「ノンセクション部門」の頃には、さすがに医師に怒られてスタッフが追い出され、さくま抜きでハガキを選考している。のちにさくま曰く「チョコバナナ作っているときが、一番血圧が低く安定していると医師に言われた」との事。ただ、左手だけはなかなか回復せず、「仕事人裏日記」では左手が不自由であることを度々記している。 かつて漫画評論家をやっていたことがあるが、本人はある時期までその事をすっかり忘れていたという。思い出したのは『チョコバナナ』の編集長を始めて、しばらく経ってから。投稿者の作品にコメントを付けているうち「(自分は)やけに絵に詳しいなと思ったんだ」という。忘れた理由について本人曰く「10年前(1986年)に当時の漫画に失望してやめたから、記憶から消してしまったようだ」との事。『チョコバナナ』で共に作品を選考していた榎本一夫からは「ギャグじゃないの〜! 昔の仕事普通忘れないよ!」と突っ込まれた。また、漫画評論家時代にいしかわじゅんと話をした際、漫画家であるいしかわの方が漫画に詳しくて驚愕したという。実際、さくまと入れ替わるようにいしかわが漫画評論家化していった。また、ジャンプ放送局においては世の中の評論家に怒りをぶつけるコーナー「評論家をぶっ飛ばせ」があった。単行本18巻のコーナー扉のコメントでは、ゲーム評論家の評論への怒りをあらわにしていた。 アニメ雑誌『ファンロード』の編集長、イニシャルビスケットのKこと浜松克樹とは古くからの親友同士。両者は食通・旅行好きという共通点も持つが、さくまは下戸で国内旅行専門、浜松はワイン好きで海外旅行専門という違いがある。また、2人が担当した雑誌の読者投稿ページを掛け持ちしていた投稿者も多かった。「エレメンタル」の名前で投稿していた漫画家の川添真理子もその一人で、『チョコバナナ』9巻での「FRハンドブック'97(『ファンロード』の増刊号)でチョコバナナ宣伝してきました」との報告に対してさくまは「浜松くんは古い友人なのでごひいきしてね。彼は有能です」とコメントしている。
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