八木地区
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「平成26年8月豪雨による広島市の土砂災害」の記事における「八木地区」の解説
災害日。写真中央の県営住宅の左側が八木と緑井の境になる。 1971年(昭和46年)。この時点で山際の土地開発はほぼ現状と同じ。 1962年(昭和37年)。山際の宅地開発が進められており、県営緑丘住宅は完成、阿武の里団地の造成が終わっている。 1947年(昭和22年)米軍作成。八木用水を境に宅地と農地が分かれている。 1925年(大正14年)旧陸地測量部が作成した地形図に記されている当時の地名を示す。黄色は2014年土砂災害のおもな発生地点を示す。 ここでは特に顕著な被害が出た安佐南区八木地区について記載する。 この地区には貫くように八木用水が流れる。そばに太田川がありながら通常時は土地より低い水位であり取水に困難であったため、江戸時代に農業用水路として整備されたものである。阿武山北側にある取水口から途中で中国電力太田川水力発電所の放水を引き入れ、八木・緑井から太田川放水路と旧太田川の分流地点である長束まで流れる約16キロの用水路である。地区の都市化が進むにつれ農業用水から排水路へと重要度が移っていった。この八木用水から山側に向かって農地や古くからの住居が建ち、そのさらに山際が新興住宅地として開発が進み、谷筋に沿って山嶺直下にまで住宅が建ち並んでいた。 この地区の過去の災害といえば、3つの川が合流する地点であることから河川災害であった。当時の八木学区自主防災会連合会会長は、2000年代中ごろに太田川の堤防が決壊する寸前までの降雨を経験しており、日頃から水害に対して注意を払っていたと証言している。一方、土砂災害としては1980年に発行された『佐東町史』に「阿武山南部に位置する八木三丁目周辺は複数の扇状地で構成される『複合扇状地』で被災地は複数回の土石流で形成された扇状地であった」と明記されているように、古くからこの地では起こっていた。ただしこれら地誌には頻発した水害(河川災害)の詳細は書かれているが、土砂災害の詳細は触れられていない。近年で言えば、たとえば1999年土砂災害ではこの地区では被害はなかった。 『中国新聞』報道によると、 旧安佐郡佐東町時代である昭和40年代前半(1960年代後半)には、広島都市圏の拡大にともない、すでに山際に住宅が集まっていた。つまり無秩序な開発を規制する都市計画法が成立する前に開発が進んでいた。広島の都市計画の歴史において郊外で急激に都市化が進んだ地として"YGS"(安古市・祇園・佐東=八木・緑井)とくくられている。 南東側はたびたび氾濫の危険にあった太田川があったため、新興住宅地として川側よりも安全だと思われていた山側に宅地が選ばれた。 1965年に八木ヶ丘団地に土地を購入した人物は、「郊外でどんどん土地が造成されて早く買わないと自分たちの土地がなくなると思った」と回想しており、実際八木ヶ丘団地は手頃な価格であったことから売れ行きは好調だった。 都市計画法施行にともない、1971年に県都市計画地方審議会によって市街化区域と市街化調整区域の区分けが行われた。この時点で山際の住宅は市街化区域に指定、つまり住宅化が容認されたことになる。佐東町は1973年に広島市と合併するがそのままであった。 ただ住民は、団地内に巨石が落ちてきたことや、山から滝のように水が出たこと、大雨が降った時には石の転がるすごい音が聞こえていたなどの予兆は体験していた。 また(少なくとも2015年までの)都市計画法では、市街化区域内の1,000m2未満の土地は行政許可はいらず調整池などの規制はなく手続きが簡単であるという、いわゆる「ミニ開発」という抜け道が許容されていた。八木や緑井の山側はまさ土(下記参照)という宅地造成しやすい土壌であったこともあり、ミニ開発が進んだ側面もある。
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