八木城の戦い
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天正7年(1579年)織田信長軍は明智光秀を総大将に八上城や黒井城を中心に第二次丹波国征討戦に乗り出していた。そのような中、同年5月に綾部城、玉巻城が落城すると、丹羽長秀、羽柴秀長らは羽柴秀吉からの要請をうけ三木合戦の援軍として転戦して行った。同年6月、当時この地域の一定の勢力を保っていた八木城の城主内藤有勝に軍を向かわせ、八木城を攻城した。 八木城は自然の天険を利用した堅城であったため、容易に攻め落とすことができず、明智光秀は和議を申し込んだ。しかし、内藤有勝はこれを拒否し、防戦に挑んだ。 そこで、明智光秀は八木城の城兵に内通謀反を工作し、これに応じる者があり、城内の本丸、二の丸に火を放った。これを合図に明智光秀軍は攻め寄せ、ついに落城した。同年6月27日であった。この時に城主内藤有勝も戦死したものと思われている。 内藤氏の一門であった内藤正勝は、明智光秀軍を突破し八田城へ向かおうとしたが、逃走している最中に、自害する者も出て、内藤正勝は鴻ヶ獄城に入城したが、ここで没したと思われている。これにより室町時代から続いていた内藤氏は滅亡した。 この戦いの様子は『内藤盛衰記』を中心に記載されているが、内藤有勝、内藤正勝という人物がどのような人物であったのかよく解っていない。八木玄夫の研究によると『内藤盛衰記』に記載されている「有勝は架空人物。この人物に如安の実績を移し、如安の名は消し去ったのだ」としており、八木城落城の内藤有勝部分はノンフィクションの可能性も示唆している。また、同盟関係にあった織田信長と足利義昭が仲違いを生じると内藤ジョアンは「1574年(天正2年)の秋以降、和泉堺に移って以後、義昭のもとに走った」と、八木城の戦い時には八木城にいなかった可能性があるとされる。いずれにしても、この時内藤ジョアンがどこにいたのか、改ざんされたりして明確な史料は残っていない。
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