八木城の戦いとは? わかりやすく解説

八木城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 23:43 UTC 版)

八木城 (丹波国)」の記事における「八木城の戦い」の解説

天正7年1579年織田信長軍明智光秀総大将八上城黒井城中心に第二次丹波国征討戦に乗り出していた。そのような中、同年5月綾部城、玉巻城が落城すると、丹羽長秀羽柴秀長らは羽柴秀吉からの要請をうけ三木合戦援軍として転戦して行った同年6月当時この地域一定の勢力保っていた八木城城主内藤有勝に軍を向かわせ、八木城攻城した。 八木城は自然の天険利用した堅城であったため、容易に攻め落とすことができず、明智光秀和議申し込んだ。しかし、内藤有勝はこれを拒否し防戦挑んだ。 そこで、明智光秀八木城城兵内通謀反工作し、これに応じる者があり、城内本丸二の丸火を放った。これを合図明智光秀軍は攻め寄せ、ついに落城した。同年6月27日であった。この時に城主内藤有勝も戦死したものと思われている。 内藤氏一門であった内藤正勝は、明智光秀軍を突破し八田城向かおうとしたが、逃走している最中に、自害する者も出て内藤正勝ヶ獄城に入城したが、ここで没した思われている。これにより室町時代から続いていた内藤氏滅亡した。 この戦いの様子は『内藤盛衰記』を中心に記載されているが、内藤有勝、内藤正勝という人物どのような人物であったのかよく解っていない。八木玄夫の研究によると『内藤盛衰記』に記載されている「有勝は架空人物この人物に如安の実績移し、如安の名は消し去ったのだ」としており、八木城落城内藤勝部分はノンフィクション可能性示唆している。また、同盟関係にあった織田信長足利義昭仲違い生じると内藤ジョアンは「1574年天正2年)の秋以降和泉堺に移って以後義昭のもとに走った」と、八木城の戦い時には八木城にいなかった可能性があるとされるいずれにしても、この時内藤ジョアンがどこにいたのか、改ざんされたりして明確な史料残っていない。

※この「八木城の戦い」の解説は、「八木城 (丹波国)」の解説の一部です。
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