併設→H型→T型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 02:12 UTC 版)
1904年(明治37年)豪雨により落橋した。 1912年(大正元年)、広島城の外堀を埋め立てその上に相生通りが整備され、同年11月広島駅から紙屋町を経由し相生橋まで伸びる広島電気軌道(現広島電鉄本線)が開通すると、くの字型の木橋のやや上流(現在の併用橋の位置)に木橋の電車軌道専用橋が併設された。 1919年(大正8年)7月、大規模な洪水が市内全域を襲い、相生橋は上流側の電車橋とともに落橋してしまった。その後、双方の相生橋は架け直された。のち旧都市計画法が広島市にも適用され、近代的な都市基盤整備が計画された。この中で相生通りを13間半(約24.5m)拡幅し広電の複線化、そして相生橋電車橋も同様に拡幅し近代的な技術を導入し永久橋化することが決まった。 1932年(昭和7年)、国道2号筋の橋として鋼鈑桁の道路・軌道併用橋に架け直された。工事は広島県によるもので、総工事費は昭和7年時点で246,864円(27万円とも)、うち6万円を広電が負担している。 1934年(昭和9年)、併用橋から慈仙寺鼻に向かって鋼鈑桁の連絡橋が完成、従来の相生橋と合わせて「H字型」の橋となった。1938年(昭和13年)4月から木橋の撤去を開始、1940年(昭和15年)に完了し、現在の「T字型」となった。以下、最終型のT字橋、つまり被爆時の橋の諸元を示す。 最終型のT字型だが当初の欄干は鋼製であった。 併用橋連絡橋橋長 120.968m 62m 幅員 22m 7.3m 橋種 7径間連結鋼鈑桁橋 4径間連結鋼鈑桁橋 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 原爆投下前。 投下後。 同心円の中心が爆心地。 なお竣工当時、親柱は石製だったが、欄干や橋上の街燈は鋼製であった。被爆時の欄干は鉄骨鉄筋コンクリート造である(下記参照)ことから、のちに何らかの理由により代えられたことになる。 南側に広がる中島本町は、幕末から明治・大正初期へかけて市内でも有数の繁華街であったが、大正中期に入ると繁華街の中心が市の東部へ移りはじめたので、往年の盛り場の雰囲気はなくなり、木造平屋の民家が広がる庶民的な街となった。このころ、橋の東詰には産業奨励館(現原爆ドーム)や広島護国神社、広島商工会議所・日本赤十字社広島支部や広電櫓下変電所、西詰には本川国民学校(現広島市立本川小学校)が存在していた。 一方で東北方向には広島城を中心に中国軍管区司令部など陸軍施設が密集し、"軍都広島"の中心地があった。
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