作曲活動と作風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 02:30 UTC 版)
「ジョルジェ・エネスク」の記事における「作曲活動と作風」の解説
エネスク作品の多くはルーマニアの民俗音楽に影響されており、最も有名な作品としては、2つの「ルーマニア狂詩曲」(1901年–1902年)や歌劇「エディプス王(英語版)」(1936年)、3つの管弦楽組曲がある(このほかの作品については下記参照)。エネスクは2つの世界大戦の時期に戦乱を避けてルーマニアに帰国しており、その間にいくつかの作品が、郷里ルミニス地方(Luminis)のシナヤ(Sinaia)で作曲された。一部の作品(ヴァイオリン・ソナタ第3番、「エディプス王」など)には微分音を用いている。 エネスクは1890年ころから作曲を始め、早熟の天才としてウィーン時代からその才能が知られていた。初期のエネスクは、ワーグナーとブラームスなどに影響を受け、さらにフランスに渡ってからは、恩師フォーレのほか、フランクやダンディ、ショーソン、デュカなどの影響が加わっていく。 第一次世界大戦開始までの時期がだいたいエネスクの初期に該当し、この頃はまだロマン主義音楽の伝統に立ち、華麗で色彩的な作風を取っている。たとえば現在エネスクの代表作として親しまれている2つの「ルーマニア狂詩曲」は、この時期の所産である。「交響曲第1番」を発表する前に4曲の「習作交響曲」も残している。 エネスクはもともと作曲の筆が速く、初期において、多忙な演奏活動のかたわら管弦楽曲の大作を書き続けることができたのも、まさにその能力のためであった。だが、「協奏交響曲」の初演の大失敗が引き金となり、これ以降は作曲の筆を慎重に運ぶようになっていく。ある研究者によると1909年からの数年間が、作曲家エネスクの内面の危機であり、多くの作品が着想・起草されながらも、中断したまま放棄され、あるいは全く譜面に起こすこともされなかった[要出典]。あるいは完成された作品でも、第1次世界大戦に前後する時期の作品は、いわば多大な「産みの苦しみ」を伴って完成された。たとえば「ピアノ・ソナタ第2番」について、エネスクは「曲はもう出来上がっていて、頭の中にあるんだ」と言い続けたが、譜面は現存していない。唯一のオペラ「エディプス王」は、この時期に構想と作曲が開始されながらも、10年以上にわたってなかなか完成されなかった。 その反面、第1次世界大戦中にエネスクの作風は、新たな局面を迎えている。フランスで着手された「交響曲第2番」は、パリ初演の時に「印象主義的」「未来主義への接近」と呼ばれて、非難囂々だったと言われている。しかし、今日の耳からすると、この作品の響きはまだリヒャルト・シュトラウスの交響詩に近い。戦後の作風はいよいよ民族色が濃厚となる。ルーマニアの民族音楽の影響のもとに、語るような自由リズムによる旋律(パルランド様式)、長調・短調の判然としない民族音階の利用、機能和声からの離脱などによって、はなはだ調性感の弱い作品が増え、とりわけ成熟期の代表作である「ヴァイオリン・ソナタ第3番」は、副題に暗示されているように、「ルーマニア民族音楽の性格によって」作曲されている。 第2次世界大戦が終わると共にエネスクはパリに戻るが、耐久生活を余儀なくされ、この中で作風は徐々に回顧的なものとなってゆく。「室内交響曲」は、題名こそシェーンベルクの作品を暗示するが、作品は調的・旋法的で、曲は抒情的に流れていく。また、交響曲第4番・5番(終楽章に声楽を伴う)、ヴァイオリンと管弦楽のための「ルーマニア奇想曲」など、晩年の作品の多くが未完のまま残された。これらの作品は近年になって補筆され、演奏の機会が増えている。
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