作曲経緯
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「交響曲第7番 (シューベルト)」の記事における「作曲経緯」の解説
シューベルトはグラーツ楽友協会から「名誉ディプロマ」を授与された。わずか25歳でのこの授与に対し、シューベルトは返礼として交響曲を作曲することにした。しかし、シューベルトが送付したのは第1楽章と第2楽章だけで、残りの楽章は送付しなかったとされる。 そのままシューベルトはなぜか別の交響曲(ハ長調 D 944)を作曲しだし、ロ短調交響曲を完成させる前に逝去した。シューベルトの名声が確実なものとなった没後数十年を経て、残された2楽章分のみが出版されることになった。 初演は1865年12月17日、ウィーン。初演された当時、シューベルトはすでに「大家」の扱いであり、未完成の理由について多くの推察が行われたが、決定的な証拠は遺されなかった。 交響曲は通常4つの楽章から構成され、その最も典型的な形が『運命』や『新世界より』などに見られるアレグロ・ソナタ - 緩徐楽章 - スケルツォ - フィナーレ という形式である。シューベルトも当初はそのようなものを構想して、この交響曲ロ短調の作曲を進めていったのであろうと考えられる。しかし、シューベルトは第2楽章まで完成させ、スケルツォ(第3楽章)をスケッチまでほぼ仕上げながら、そこで作曲を中止してしまったとされているが、諸説ある。 なぜ第2楽章までで作曲を中止してしまったのかには、さまざまな説がある。例えば「第1楽章を4分の3拍子、第2楽章を8分の3拍子で書いてしまったために、4分の3拍子のスケルツォがありきたりなものになってしまった」というもの、また「シューベルトは、第2楽章までのままでも十分に芸術的であると判断し、それ以上のつけたしは蛇足に過ぎないと考えた」という説などである。事実、第3楽章のスケッチの完成度があまり高くないため、シューベルトのこの判断は正しかったと考える人は多い。もっとも、このように音楽作品を完成させないまま放棄するということをシューベルトはきわめて頻繁に行っており、「未完成」であることは、この交響曲の成立に関してそれほど本質的な意味はないとする考えもある。 これとは別に、シューベルトはこの交響曲を完成させていたが、劇付随音楽『ロザムンデ』に音楽を流用するためグラーツ楽友協会に第3・第4楽章の楽譜の返還を求め、結果として楽譜が散逸した、とする説もある。 シューベルトの多くの作品で見られることであるが、第1楽章の第1主題冒頭の自筆譜にかかれた記号は、アクセントなのかデクレッシェンドなのか判然とせず、今日でも見解が分かれたままである。「そのどちらでもなく」演奏することが慣例であるが、どちらかとして解釈する演奏も見られる。
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作曲経緯
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「交響曲第4番 (アイヴズ)」の記事における「作曲経緯」の解説
第3楽章はイェール大学在学中の1890年代に原曲が書かれたが、その時には師であるホレイショ・パーカーでさえジョークと思い込んだという。その後第1楽章を1910年8月から1911年9月にかけて作曲した後、ピアノソナタ第2番「マサチューセッツ州コンコード、1840年 - 60年」の2楽章「ホーソーン」の一部を第2楽章に編曲した。その後第4楽章が1914年の夏に書かれ、1916年に全曲が完成した。 1927年1月29日にニューヨークタウンホール(英語版)で第1、2楽章がユージン・グーセンス指揮により初演された後、1965年4月26日にレオポルド・ストコフスキー指揮アメリカ交響楽団により全曲が初演された。なおこの曲は大編成なうえに技術的に高度な部分を要する箇所があるため、ロックフェラー財団が8000ドルの資金援助をしたという。 ジョン・カークパトリック(英語版)が1965年に発表した整理後のスコアが一般に流布されているが、2011年にチャールズ・アイヴズ協会(Charles Ives Society)が原典版と新しい実用版を発表し、アイヴズの自筆譜と併せて出版された。
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作曲経緯
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「ピアノ三重奏曲 (ドビュッシー)」の記事における「作曲経緯」の解説
1880年の夏、18歳になったドビュッシーは、チャイコフスキーのパトロンであったフォン・メック夫人の長期旅行に自分の娘の音楽講師とピアニストとして同伴した。長期旅行では7月下旬にスイスのインターラーケン、8月にはフランスのアルカションを経由して9月からメック夫人の別荘があるイタリアのフィレンツェに長期滞在していた。ドビュッシーの仕事の中には、メック夫人とのピアノ連弾や、夫人が雇っていたポーランド人のヴァイオリニストでチャイコフスキーの弟子であるヴワディスワフ・パフルスキと作曲をすることも含まれていた。他にも、チャイコフスキーの交響曲第4番を夫人と一緒に読譜したり、後にチャイコフスキーの『オルレアンの乙女』をピアノで読譜した。ドビュッシーはチャイコフスキーからの影響を受け、10月にチェリストのピョートル・ダニーリチェンコがメック夫人の家に加わった後に、ドビュッシーは11月まで滞在し、メック夫人によりトリオが結成された。
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