作曲活動と後半生
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「マリア・テレジア・フォン・パラディス」の記事における「作曲活動と後半生」の解説
ヨーロッパ・ツアー中、パラディスはピアノ・ソロのための曲と声楽と鍵盤楽器のための曲の作曲を始めた。パラディスの初期の作品として挙げられる、1777年頃から作られた4つのピアノ・ソナタは、実はピエトロ・ドメニコ・パラディーシ(Pietro Domenico Paradisi)の曲で、パラディスの作品の殆どが間違って彼のものとされている。現存するパラディスの最も初期の主要な作品は『Zwolf Lieder auf ihrer Reise in Musik gesetzt』という歌曲集で、1784年から1786年にかけて作曲された。パラディスの最も有名な曲といえば『ピアノ四重奏のためのシチリアーノ 変ホ長調(Sicilienne)』だが、この曲については、曲の発見者であるサミュエル・ドゥシュキンの偽作だという説があり、原曲はウェーバーのソナタ(Op.10 No.1:J.99)とも言われている。 1789年には、パラディスは演奏よりも作曲により時間を費やすようになっていて、それは1789年から1797年にかけて、5つのオペラと3つのカンタータを作曲した事実からも明らかである。しかし、1797年のオペラ『Rinaldo und Alcina』の失敗以降、パラディスはそのエネルギーを教育に移行させた。1808年、パラディスはウィーンに自身の音楽学校を設立し、少女たちに歌、ピアノ、音楽理論を教えた。学校での日曜コンサートでは、学校の傑出した生徒たちの作品が目玉となった。パラディスの授業は亡くなる1824年まで続けられた。 作曲に当たって、パラディスは、パートナーで台本作家のリーディンガーが作った表記法システムを使った。それは、ヴォルフガング・フォン・ケンペレンの発明した手刷印刷機に類似したものだった。パラディスの歌曲はほとんどがオペラ形式で、コロラトゥーラとトリルが誇示されていた。劇形式の場面にはサリエリの影響も見受けられた。舞台作品の多くはウィーン風のジングシュピール形式を手本とし、一方、ピアノ作品は恩師であるコジェルフの強い影響が見られる。
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