低落を決定づけた1969年の総選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 17:21 UTC 版)
「日本社会党」の記事における「低落を決定づけた1969年の総選挙」の解説
1969年の第32回総選挙では候補者を26人も絞ったが、140から90へと大きく議席を減らす。特に都市部での落ち込みは決定的で、東京都では13から2議席に激減した。この原因について石川真澄は、選挙の投票率が前回から大きく下落し、その下落幅が社会党候補の絶対得票率の下落にほぼ等しいこと、新聞各紙による社会党候補者の当選者数の予想の失敗(朝日新聞はこの選挙での社会党の当選者数を118名前後と予想していた)から、前回選挙までは社会党に投票していた旧来の支持層の多くが棄権し、投票所に行けば社会党候補に投票するはずであった有権者の相当部分が実際には投票所に行かなかったため、社会党候補の得票数が減少し、その結果として各選挙区で当落線上にあった社会党候補の大部分が落選したためであるとの見解を示している。そして、この時に社会党にとって特に不利になるような社会構造の変化が突然起こったわけではない以上、当時の政治的な問題が原因だとしか考えられず、その原因として考えられるのは、この時期に起きた社会主義に幻滅を与える数々の事件(新左翼による暴力的な全国学生闘争/70年安保闘争やそれに伴う内部暴力抗争=内ゲバ)、中華人民共和国の文化大革命の混乱、チェコスロバキアへのソ連率いるワルシャワ条約機構軍の侵攻(チェコ事件)などについて、社会党がはっきりと批判的な態度を取らず曖昧な態度に終始していたこと、文革やソ連の侵攻について党内には理解を示す動きすらあったことではないかと推測している。また、この時から各種世論調査で「支持政党なし」層が急増することにも注目し、社会党を支持していた層のうち、69年総選挙で一旦棄権した後、社会党支持には戻らず「支持政党なし」に移行した有権者が多数存在していたのではないかとも述べている。 しかし、自主独立路線を確立しソ連や中国への批判姿勢を強めた日本共産党は、この時期から議席が拡大傾向を示すようになり、社会党の側からも脅威と見られるようになった(これが社共共闘が壊れた理由の一つでもある)。また新左翼に対する若年層の支持はそれなりにあったし、中華人民共和国の文化大革命の実態はこの時点ではほとんど知られておらず、「ベトナム戦争はアメリカの不正義性とアジア各国の社会主義の優越性を示すもの」として、社会主義への期待は一部に残っており、むしろ、多党化現象の余波や都市部での都市流入層の組織化を怠った結果というほうが正確とする意見もある。[要出典] 社会党の財政は弱体で、所属議員数に応じて会派に支給される立法事務費を党財政の足しにしていた。そのため、50議席減による減収によって、本部書記局員、機関紙局員の約1/3にあたる67人が整理(自主退職含む)されることとなった。指名解雇者の反発は大きく本部内部に多数のアジビラが貼られたほか、外部には解雇を非難する立て看板も立てられる事態になった。また、人員整理は再就職の当てがある人材を対象としていたため、優秀な職員を手放すことになったことは痛手となった。 1972年の第33回総選挙では、成田知巳委員長、石橋政嗣書記長(成田-石橋体制)のもとで前回の90から118へ戻し、ある程度の議席を回復したものの、得票数では前回失った票数の約半分を取り戻すにとどまり、完全に議席を取り戻すまでには行かなかった。
※この「低落を決定づけた1969年の総選挙」の解説は、「日本社会党」の解説の一部です。
「低落を決定づけた1969年の総選挙」を含む「日本社会党」の記事については、「日本社会党」の概要を参照ください。
- 低落を決定づけた1969年の総選挙のページへのリンク