仏教美術と著作活動の専念
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京都の喧騒を離れて吉野に移った文観は、南朝における仏教美術の監修と学問的著作活動に専念するようになった。 奈良国立博物館には、文観が延元2年/建武4年(1337年)から翌年にかけて描いた『日課文殊菩薩図像巻』が所蔵されている。これは、一日一体の文殊菩薩を描く修行で、西大寺にいた20代の青年時代からの継続的な取り組みである。巻末に光明真言という呪文が梵字で記載されているが、これらは死者埋葬の際の土砂加持(浄められた白砂を死者や墓に散布して、生前の罪業を滅する儀式)に唱えられる呪文で、真言律宗では特に重視されたものである。文観は、真言宗報恩院流の高僧でありながら、律僧としての意識も保っていたことがわかる。 また、奈良国立博物館には、大和国(奈良県)室生寺の長老である真海による『如意輪観音菩薩印仏』(延元3年/暦応元年(1338年))という仏画も所蔵されている。真海は年齢的には文観より20歳年上ではあるものの、文観の門弟の一人であり、内田啓一の推測によれば、真海が建武元年(1334年)に室生寺長老となったのも文観からの推挙があったのではないかという。真海の『如意輪観音菩薩印仏』にも、文観の画業からの影響が見られるという。南北朝時代になると像容が簡略化して崩れていくものが多い中で、細部まで丁寧に描かれた作例としても貴重である。 文観は仏教学上の著作活動も盛んに行い、延元3年/暦応元年(1338年)2月14日には後醍醐天皇の勅命により『般若心経法』を撰述・注進した。 同年4月14日には、平安時代に書写された醍醐寺の至宝の一つである「弘法大師二十五箇条御遺告」(以下「御遺告」)を、後醍醐帝から相伝した。なお、文観が相伝した「御遺告」は、この80年余り後に越前国(福井県)で再発見され、第3代将軍足利義満の寵僧の満済が醍醐寺座主だった頃の応永29年(1422年)8月21日に、醍醐寺に返却された。文観が入滅時まで「御遺告」を抱えていたならば、本来は河内国(大阪府)の金剛寺に所蔵されていたはずだが、なぜそれが越前にあったのか、2006年時点では不明である。 5月1日には『千鉢文殊法』を述作。12月19日には金峯山寺で仁王像阿行が完成しているが、像内背部墨書に金峯山寺学頭である宗遍という僧の名が見える。宗遍は文観の付法を受けた僧であるから、内田は、この仁王像の造立には文観が当然関わっていたであろうと主張している。 こうした一方で、この年の5月には南朝鎮守府大将軍の北畠顕家が、閏7月には南朝総大将の新田義貞が討死し、南朝は相次いで代表的名将を喪失して軍事的窮地に立たされた。それに対し、足利政権では、8月11日に足利尊氏が北朝から征夷大将軍に補任されるなど、着々と政治体制の整備を進めていった。 なお、正確な制作時期は不明だが、吉野の吉水神社には、文観と後醍醐天皇の合作による両界種字曼荼羅が残されている。両界曼荼羅は一般に死者追善のために作成されるもので、特に両界種字曼荼羅は真言律宗とも関わりが深い。内田啓一は、時期から考えて、文観と後醍醐天皇が戦死者の安寧を祈って制作したものであると推測しており、「後醍醐天皇の清浄な作善」、(文観は)「これだけ清浄な作善という意味を含めて、関連作品を残した事相僧はいない」と評している。
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