後村上天皇護持僧としてとは? わかりやすく解説

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後村上天皇護持僧として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「後村上天皇護持僧として」の解説

延元4年/暦応2年1339年9月21日後醍醐天皇五七日法要の後、しばらく文観確実な記録途絶えるが、事相書(真言密教実践書)の執筆活動など専念していた可能性はある。 同年秋に南朝脳髄である北畠親房歴史書『神皇正統記』執筆また、吉野金峯山寺仁王像吽形完成したが、この像の制作にも前年阿形像に引き続き(#仏教美術と著作活動の専念)、文観ある程度関わりがあったとみられる翌年延元5年/暦応3年1340年2月23日には、後村上天皇楠木氏菩提寺である河内国観心寺南朝勅願寺指定した。 再び文観確実な記録現れるのは、五七日法要から3年後興国3年/暦応5年1342年3月21日弘法大師忌で、この日、文観三衣袈裟という霊宝高野山寄進している。もともと、亀山上皇御物だったのが、その子後宇多上皇伝わり、さらにその子後醍醐天皇伝わり最終的に文観後醍醐から下賜されたものである文観三衣袈裟寄進の際に用いた箱である「蒔絵螺鈿筥三衣入」(金剛峯寺)は、この容器そのもの美し芸術品であり、重要文化財指定されている。内田啓一主張によれば、この箱の製作に文観直接関わったという確実な証拠はないとはいえ文観これだけ後醍醐後村上朝の美術品監修手掛けてきたのだから、この箱についても何らかの形で参画していたと想定して良いであろうという。 興国4年/康永2年1343年12月16日には、『注理趣経』を撰述した。この後4年近くの間、文観足跡は再び不明となる。 正平3年/貞和4年1348年1月室町幕府執事高師直によって南朝の仮の都である吉野行宮陥落し金峯山寺蔵王堂なども焼亡した。後村上天皇吉野逃れ賀名生奈良県五條市所在)に新たな行宮定めた賀名生山岳囲まれ天然要害であり、逆に言えば周囲高僧駐留できるような寺院あったか不明である。そのため、内田推測によれば文観は後帝の護持僧とはいえ賀名生には随行せず、折に触れて賀名生行宮訪れて祈祷法会を行うという形態で帝に従事したではないか、という。 同じく正平3年/貞和4年1348年)の7月25日文観は『注理趣経著述以来久しぶり歴史現れ高野山金剛峰寺宝珠を、御影堂大師由来宝物12種を寄進している。文観これだけ重宝持っており奉納繰り返していることは、文観真言宗においていまだ一定の影響力保持していた証拠ではあるものの、やはり絶頂期比べて不安定な地位にあったことは否めない内田推測によれば文観は、宝物散逸焼亡戦禍から守り未来伝えるには、大寺院である高野山奉納することが、最も適した方法であると考えたではないか、という。また、内田は、文観宝物安穏優先して、かつて痛烈に自分非難した相手に対してさえも私情入れず寄進する姿からは、他の真言僧には見られなない文観清浄な性格推し量ることができるのではないか、と主張している。

※この「後村上天皇護持僧として」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「後村上天皇護持僧として」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。

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