後村上天皇護持僧として
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延元4年/暦応2年(1339年)9月21日の後醍醐天皇五七日法要の後、しばらく文観の確実な記録は途絶えるが、事相書(真言密教の実践書)の執筆活動などに専念していた可能性はある。 同年秋には南朝の脳髄である北畠親房が歴史書『神皇正統記』を執筆。また、吉野の金峯山寺で仁王像吽形が完成したが、この像の制作にも前年の阿形像に引き続き(#仏教美術と著作活動の専念)、文観とある程度の関わりがあったとみられる。翌年の延元5年/暦応3年(1340年)2月23日には、後村上天皇が楠木氏の菩提寺である河内国観心寺を南朝の勅願寺に指定した。 再び文観の確実な記録が現れるのは、五七日法要から3年後の興国3年/暦応5年(1342年)3月21日の弘法大師忌で、この日、文観は三衣袈裟という霊宝を高野山に寄進している。もともと、亀山上皇の御物だったのが、その子の後宇多上皇に伝わり、さらにその子の後醍醐天皇に伝わり、最終的に文観が後醍醐から下賜されたものである。 文観が三衣袈裟寄進の際に用いた箱である「蒔絵螺鈿筥三衣入」(金剛峯寺蔵)は、この容器そのものが美しい芸術品であり、重要文化財に指定されている。内田啓一の主張によれば、この箱の製作に文観が直接関わったという確実な証拠はないとはいえ、文観はこれだけ後醍醐・後村上朝の美術品の監修を手掛けてきたのだから、この箱についても何らかの形で参画していたと想定しても良いであろうという。 興国4年/康永2年(1343年)12月16日には、『注理趣経』を撰述した。この後4年近くの間、文観の足跡は再び不明となる。 正平3年/貞和4年(1348年)1月、室町幕府執事高師直によって南朝の仮の都である吉野行宮が陥落し、金峯山寺蔵王堂なども焼亡した。後村上天皇は吉野を逃れ、賀名生(奈良県五條市に所在)に新たな行宮を定めた。賀名生は山岳に囲まれた天然の要害であり、逆に言えば、周囲に高僧が駐留できるような寺院があったかは不明である。そのため、内田の推測によれば、文観は後村帝の護持僧とはいえ賀名生には随行せず、折に触れて賀名生行宮を訪れて祈祷や法会を行うという形態で帝に従事したのではないか、という。 同じく正平3年/貞和4年(1348年)の7月25日、文観は『注理趣経』著述以来久しぶりに歴史に現れ、高野山金剛峰寺に宝珠を、御影堂に大師由来の宝物12種を寄進している。文観がこれだけの重宝を持っており奉納を繰り返していることは、文観が真言宗においていまだ一定の影響力を保持していた証拠ではあるものの、やはり絶頂期に比べて不安定な地位にあったことは否めない。内田の推測によれば、文観は、宝物の散逸や焼亡を戦禍から守り未来に伝えるには、大寺院である高野山に奉納することが、最も適した方法であると考えたのではないか、という。また、内田は、文観が宝物の安穏を優先して、かつて痛烈に自分を非難した相手に対してさえも私情を入れずに寄進する姿からは、他の真言僧には見られなない文観の清浄な性格を推し量ることができるのではないか、と主張している。
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