後村上天皇時代と南朝衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 09:17 UTC 版)
「南朝 (日本)」の記事における「後村上天皇時代と南朝衰退」の解説
この頃、九州において少弐氏に擁立されていた足利直冬は九州から駆逐され、同年11月に南朝に属して尊氏に抵抗する。1353年(正平8年/文和2年)には楠木正儀、山名時氏らが二度目の京都奪還を果たすも短期間で駆逐される。翌1354年、4月には主導的人物であった北畠親房が死去、10月に後村上天皇は賀名生から河内金剛寺へ移る。1355年(正平10年/文和4年)にも直冬を奉じた山名時氏らが京都侵攻を行うが、維持出来ずに撤退している。 1358年(正平13年/延文3年)に北朝では足利尊氏が死去し、2代将軍となった足利義詮は本格的な南朝掃討をはじめる。1361年(正平16年/康安元年)には足利政権において政争から失脚した執事の細川清氏が南朝に属し、楠木正儀らと4度目の京都侵攻を行い、一時的に占領する。その後、後村上天皇が摂津国の住吉大社宮司の津守氏の正印殿を約10年間、行宮(住吉行宮)とし、住吉大神を奉じる瀬戸内海の水軍を傘下にして、四国、九州との連絡網を確立し、南朝は各地で活動するが、1363年には山名氏や大内氏の北朝への帰順などで衰退し、拉致した三上皇を返還するなど講和的態度も示している。
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