人物寸描(五十音順)
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井上ひさしとは夕刊フジの連載「巷談辞典」(1974-1975)で組んだこともあり、親しく交流があるが、1986年には、井上の私生活に関するニュースを「ブラック・アングル」であえて揶揄の対象にしている。そこでは、からかったブラック氏に対し井上が拳骨を与える絵が添えられている。2010年4月9日に井上が逝去した際も、「ブラック・アングル」で井上を追悼する似顔絵と山藤のコメントを掲載した。 沢田研二については、1976年の暴力事件(「いもジュリー」事件)以降、しばしば画題に取り上げている。「いもジュリー」事件の際は、「はじめ人間ギャートルズ」の主人公一家をおびやかす「新原始人間」として沢田を描いた。 1977年、常用漢字試案から「芋」「殴」が削られた際は、それを惜しむ沢田を登場させた。 1979年、沢田がPARCOのポスターに初の男性ヌードモデルとして起用された際は、「時代の鼓動を鳴らすのは誰だ」のキャッチコピーをもじって「男か女かわからないのは誰だ」と揶揄した。 田中角栄については、定期連載開始時から1993年の死去まで幾たびも風刺対象にしてきた。1983年12月の衆院選挙の際に、野坂昭如が「打倒田中」を宣言して新潟3区(旧)から立候補すると、田中の銅像(兵馬俑)を蹴っ飛ばす野坂の絵を掲載した(当時、展示された武官俑が破壊される事件があった)。結果は、田中がトップ当選を果たし、野坂は次点で落選。田中にとって、これが健在の頃としては最後の選挙戦であった。 寺尾聰は父の宇野重吉に似てきたといわれるが、山藤はそれを予見する作品を1981年に掲載している。この年、寺尾は「ルビーの指環」を歌い、「ザ・ベストテン」などの音楽番組で10週以上にわたり1位をマークした。音楽賞も総なめし、「紅白歌合戦」にも出場した。山藤は、その寺尾の代わりに、父の宇野にサングラスをかけさせ、マイクを持たせたところを描いた。「父の日のプレゼントのつもりで」若い格好をさせたという趣向であるが、宇野の姿は寺尾にそっくりであった。 張本勲は、読売ジャイアンツに移籍した当時、いかつい風貌からよく暴れ者と曲解されていたという。山藤はこれをもとにした作品を掲載した。1976年、園山俊二の画風を模して暴れ者の有名人を描いた「新原始人間ギャートルズ」の中に、張本の顔があった。 1980年に張本がトレードにより退団すると、巨人のユニフォームを食いちぎる猛獣として描いた(同時に舌禍で退団した青田昇も猛獣にされた)。 同じ年に日本初の5つ子が誕生すると、張本を暴れ者の赤ん坊として描いた(背負っているのは当時の長嶋茂雄監督)。 美空ひばりの絵は、他の媒体では多く描いているが、「ブラック・アングル」では少なく、2点ほどである。1976年には、小野吉郎NHK会長(当時。この年引責辞任)と子ども同士のように睨み合っているところを描いた。また、1979年には、「紅白歌合戦」に7年ぶりに特別出演が決まったことを取り上げ、同様に特別出演の藤山一郎と並ばせて、ブラック氏に「敬老特集」と評させた。作家の石堂淑朗は、山藤の絵について「ひばりをこんなにひどく描いた絵かきはいない!!」と「ホメてくれた」という(『とりあえず!?』講談社 1990)。山藤はひばりの「『野暮ったさ』、『くさみ』、『高慢ぶり』または『コワイ周辺』といった、小生の好きでない部分を画想のベースにした」という(同)。 読売新聞グループ本社会長の渡邉恒雄については権力を誇っていた1990年~2004年の読売新聞社長兼主筆時代に風刺の対象にしている。
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